あきづき たねざね
| 地域 | 九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 筑前の国衆(毛利→大友→島津→豊臣) |
| 大名家 | 秋月家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 謀略・反骨型 |
秋月種実は、筑前の古処山城(福岡県朝倉市)を本拠とした戦国武将である。父を大友氏に討たれたのち、毛利氏や島津氏と結んで大友氏と戦い、筑前・筑後に勢力を広げた。豊臣秀吉の九州平定で降伏し、子の種長は日向の高鍋藩主となった。
大蔵氏の流れをくむ秋月家
秋月家の本姓は大蔵氏で、中国の後漢の皇帝の子孫と伝えられる。一族は藤原純友の乱で功をあげ、筑前御笠郡の原田を与えられて原田氏を名のった。その一族が鎌倉時代から秋月を名のるようになった。
種実は天文14年(1545)、秋月種方の次男として生まれた。弘治3年(1557)、父の種方は大友氏と戦って敗れ、古処山城は落城した。父と兄は討ち死にし、幼い種実は家臣に守られて毛利元就を頼り、周防へ逃れた。
大友氏との長い戦い
毛利氏のもとで成長した種実は、やがて古処山城を取り戻した。永禄10年(1567)には大友方に背いた高橋鑑種と組み、休松の戦いで大友軍を破った。この勝利で種実の名は広く知られた。
永禄12年(1569)にはいったん大友氏に降った。しかし大友氏が弱まると再び立ち上がり、天正6年(1578)には筑前から大友方の勢力をほぼ追い払った。勢いは筑前・筑後一帯に及び、36万石に相当する領地を持ったともいわれる。領内には「秋月二十四城」と呼ばれる城の守りを築いたという。天正12年(1584)には、島津氏と龍造寺氏の和平を取りもった。
秀吉への降伏と名物「楢柴」
天正14年(1586)、豊臣秀吉が島津氏を攻めることになると、種実は島津方についた。翌天正15年(1587)、秀吉の大軍を前に降伏し、名物の茶入れ「楢柴」を差し出して許された。
秋月家の領地は取り上げられた。子の種長は日向の財部(のちの高鍋)3万石に移された。種実は「十石でもよいから秋月に残りたい」と嘆いたという話が伝わる。号を宗誾といい、慶長元年(1596)9月26日に52歳で亡くなった。
高鍋藩として明治まで続く
秋月家は種長のあとも日向高鍋藩の藩主として続いた。江戸時代を通じて家を保ち、幕末を迎えた。明治になると子爵の位を授けられている。
ゆかりの地
- 古処山城跡(福岡県朝倉市):秋月家代々の本拠となった山城
- 高鍋城跡(宮崎県児湯郡高鍋町):種実の子・種長以降、秋月家が治めた高鍋藩の城
参考にした資料
秋月種実とは
秋月種実は、筑前の秋月を本拠とした秋月家の当主です。大友家と長く戦い、北九州で大きな勢力を築きました。
父の死と再起
種実の父・秋月文種は、大友家に攻められて自害しました。種実は毛利家を頼り、のちに秋月に戻って家を立て直しました。
古処山城
秋月家の本拠の古処山城は、今の朝倉市にある古処山の上にあった山城です。
楢柴肩衝
種実は、名物の茶入れ「楢柴肩衝」を持っていたことで知られます。秀吉に降伏した際、これを差し出したと伝えられます。
評価
種実は、父を失った逆境から家を立て直し、大友家と渡り合った北九州の雄です。のちの高鍋藩の秋月家の基礎を築きました。
このイラストについて
このイラストは、山城と雲海を背に、大きな前立ての兜をかぶった種実を描いています。
引き締まった顔と堂々とした姿で、北九州で勢力を広げた武将の力強さを表しました。
夕日に染まる山々と城は、秋月家の本拠・古処山城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
筑前の古処山城を本拠とした家。秋月種実は父を大友氏に攻められて失った後、毛利氏の支援を受けて旧領を取り戻し、のちに島津氏と結んで筑前・筑後・豊前に大きな勢力を築いた。
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