真田信之 | 昌幸の長男。徳川方に属して真田家を存続させ松代藩主として真田の血線を後世へ繋いだ

さなだ のぶゆき

地域甲信越
所属勢力・属性真田氏
大名家真田氏
家紋六文銭
主武器太刀・采配
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ堅実・英明
目次

派手な弟の陰で家を守り抜いた男

真田信之(さなだ のぶゆき、初め信幸)と聞いて、すぐにその顔立ちや事績が思い浮かぶ人は決して多くないだろう。それもそのはずで、弟である真田信繁(幸村)のあまりに華々しい武名が、歴史の表舞台を大きく覆い尽くしてしまっているからである。しかし戦国乱世を最後まで生き抜き、真田の家名を血の一滴も絶やすことなく江戸の泰平の世まで確かに繋いだのは、ほかならぬこの長兄・信之その人であった。派手な武功こそ乏しいが、その堅実にして忍耐強い生涯こそ、乱世を生き延びるための知恵の結晶といえるのである。

九十三歳という当時としては驚異的な長寿を全うし、信濃松代十万石の礎を築き上げた信之の人生を、父・昌幸、弟・信繁、義父・本多忠勝、正室・小松姫といった家族との濃密な関わりを軸に、じっくりとたどってみたい。そこに浮かび上がるのは、名を惜しむよりも家を惜しみ、己を誇るよりも一族を守ることに徹した、勝つことよりも残ることを選び続けた、一人の武将の静かで揺るぎない覚悟の物語である。

真田氏の出自と信濃の風土

真田氏は信濃国小県郡(現在の長野県上田市周辺)を本拠とした国衆であり、もとは信濃の名門・海野氏の流れを汲むと伝わる、決して大きくはないが誇り高い一族であった。山がちで痩せたこの地は、常に周囲の大勢力から去就を問われる、緊張の絶えぬ土地であった。甲斐の武田、越後の上杉、相模の北条、そして三河から東へと勢力を伸ばす徳川——いくつもの巨大勢力にぐるりと囲まれた真田氏は、単純な忠義や情義だけでは到底生き残れぬ、過酷な地政学のただ中に根を張っていたのである。

こうした厳しい風土こそが、後に信之が示すことになる現実的で冷静な判断力と、時には一族を敢えて二つに分けてでも家名だけは何としても残そうとする、したたかで合理的な発想を育む土壌となっていった。真田の人々にとって、生き残ることは常に最優先の課題だったのである。

父・真田昌幸という稀代の智将

信之の父・真田昌幸は、甲斐の武田信玄・勝頼の二代に近習として仕え、その直接の薫陶を受けて育った、戦国屈指の智謀の将であった。武田家滅亡という激動の後も、主家を次々と巧みに乗り換えながら、真田家の独立と存続を鮮やかに保ち続けた。天正十三年(1585年)の第一次上田合戦では、わずか二千ほどの寡兵をもって数倍する徳川の大軍を散々に翻弄して撃退し、その智謀の名を一挙に天下へ轟かせた。

まさに敵味方から表裏比興の者と評された、油断のならぬ策略家であったといえよう。信之はこの父から知略と胆力、そして戦場を読む眼を確かに受け継ぎながらも、父のように奇策で世を渡るのではなく、誠実さと堅実さをこそ己の生き方の根幹に据えていくことになる。

弟・真田信繁(幸村)との深い絆

信之には二歳ほど年下の弟・信繁がいた。後に幸村の名で永く語り継がれ、大坂の陣において徳川家康の本陣をあと一歩のところまで追い詰めた、日本一の兵と称される、あの伝説的な人物である。兄弟は幼い頃から同じ父・昌幸のもとで武芸と兵法を学び、真田の家を共に背負って立つべき存在として、肩を並べて育った。

その間に結ばれた絆は深く、後年に敵味方として分かれることになってもなお、決して断ち切れぬものであった。華やかで奔放な才を放つ弟と、地道に一族を支える堅実な兄——この見事なまでに対照的な兄弟の在り方こそが、やがて真田家を存亡の淵から救い出す、二つの道へと結実していくのである。

武将としての成長と若き日々

信之は永禄九年(1566年)に真田昌幸の長男としてこの世に生を受けた。長じては父に付き従って信濃や上野の各地を転戦し、いまだ若年のうちから武将としての器量と度胸を、実戦のただ中で磨き上げていった。天正十三年(1585年)の第一次上田合戦においては、父とともに徳川の大軍を迎え撃ち、少年から青年へと移りゆくその身で、早くも戦場の凄惨な修羅を身をもって経験することとなった。

この時期の信之は、父の的確な指揮のもとで戦の呼吸を体で覚えつつあったが、単なる血気の猛勇に走ることなく、常に大局を冷静に見据える眼を、この頃からすでに養い始めていたのである。

徳川家への臣従という選択

天正壬午の乱を経て、真田氏は上杉・北条・徳川という三大勢力の間を目まぐるしく渡り歩いたのち、豊臣秀吉の仲介もあって、最終的には徳川家康の与力大名として明確に位置づけられていくことになった。この徳川との関係において、信之は真田一族の中でも最も徳川方に近い立場を担うことになった。

父・昌幸がなお完全な独立の気概を捨てきれずにいたのとは、いかにも対照的な役回りであったといえる。家康の麾下で働くうちに、信之はその律義で誠実な人柄を徳川の武将たちに広く認められ、譜代衆にも劣らぬほどの確かな信頼の足場を、徳川家臣団の中に着実に築き上げていったのである。

義父となる本多忠勝——徳川四天王の猛将

徳川家康は、独立心の強い真田を確かに徳川の側へと繋ぎとめておくべく、数多の家臣の中でも屈指の猛将として知られた本多忠勝の娘を、信之に嫁がせるという縁組を巧みに図った。本多忠勝は生涯にわたって五十七度もの合戦に臨みながら、ただの一度も傷らしい傷を負わなかったと伝わる、徳川四天王の一角にして無双を誇る勇士である。

その武名は徳川のみならず敵陣にまで轟いていた。このような徳川家中でも最重要の家臣の娘との縁組がまとまったことは、真田信之という若武者が、家康の目にいかに将来有望で信頼に足る存在と映っていたかを、何よりも雄弁に物語っているといえよう。

正室・小松姫を迎える

こうして信之の正室として迎えられたのが、本多忠勝の娘・小松姫であった。家康はこの婚儀にあたって彼女をわざわざ自らの養女として遇し、格式を万全に整えたうえで、真田家のもとへと送り出したと伝わる。つまり小松姫は、実父・本多忠勝の輝かしい武名と、養父・徳川家康のこの上ない権威、その双方を同時に背負って信之のもとへ嫁いできた、極めて重い政治的意味を帯びた妻であったのである。

この縁組によって信之は、名実ともに徳川の一門に準ずる存在となり、後の関ヶ原の岐路において東軍に立つべき確かな理由を、妻という血縁の形で己の内に深く抱え込むことになったのであった。

賢婦人・小松姫の気丈な逸話

小松姫は、その美しさもさることながら、何よりも気丈さと聡明さにおいて世に知られた賢婦人であったと語り継がれている。数ある逸話の中でも、舅である昌幸にまつわる一件は、とりわけ名高いものである。関ヶ原へと向かう途上、昌幸と信繁の一行が信之の居城・沼田城に立ち寄り、孫の顔をひと目見たいと入城を求めてきた際、留守を預かっていた小松姫は自ら甲冑を身にまとって門前に立ちはだかり、これを敢然と拒んだと伝わる。

たとえ舅であろうと、今は敵方についた身の者を城内に入れるわけには参りませぬ——そう言い放ったその毅然たる態度は、後に城下の寺で孫と対面させたという情の深さと相まって、まさに武家の賢夫人の鑑として今に語り継がれている。

上田と沼田を領する若き当主

信之は父・昌幸の代からの真田領のうち、上野国沼田を中心とした一帯を実質的に任され、若くして一国一城の統治者としての手腕を、否応なく厳しく問われる立場に立たされることとなった。戦乱の絶えぬ国境の要地を安んじて治めるには、戦場での武勇のみならず、民の暮らしを支える地道な民政の才が欠かせない。

信之は常に堅実な内政を重んじ、領民を安んじる善政の心構えを、この頃から確かに育んでいった。この地道で辛抱強い統治の経験こそが、後年に彼が信濃の一藩を長きにわたって泰平に治めていく、その揺るぎない基礎となっていったのである。派手さはないが、これこそ信之の真骨頂であった。

天下を二分する関ヶ原へ

慶長五年(1600年)、天下人・豊臣秀吉の死後に急速に高まった徳川家康と石田三成の対立は、ついに全国の大名を東西へと二分する、天下分け目の大戦へと発展していくことになった。会津の上杉討伐に向かう家康の軍勢に従っていた真田父子のもとへ、石田三成挙兵という一報がもたらされる。ここで真田一族は、家そのものの命運を賭けた、あまりにも重大な岐路に立たされることとなった。

東軍につくのか、それとも西軍につくのか——いずれを選んだとしても、敗れた側は一族滅亡を到底免れない。父・昌幸、兄・信之、弟・信繁の三人は、下野国犬伏の地で、密かに一族の運命を定める評定を開いたのである。

犬伏の別れ——一族を分ける苦渋の決断

犬伏の宿における父子三人の話し合いは、後の世に犬伏の別れとして語り継がれる、真田家の歴史において最も重く、最も哀しい場面である。三人は夜を徹して、家の行く末を真剣に論じ合ったと伝わる。そして最終的に下された結論は、あえて父弟と長兄が袂を分かち、敵味方に別れて戦うという、驚くべきものであった。昌幸と信繁は西軍へ、信之は東軍へ——どちらが勝っても真田の血脈が必ず残るよう、家をあえて二つに割ったのである。

これは骨肉の情を無理やり断ち切る、身を裂かれるほどの苦渋の決断であると同時に、乱世に一族を何としても存続させるための、冷徹なまでに合理的で計算し尽くされた、生き残りの知恵でもあったのである。

東軍に与した信之の胸中

信之が東軍を選び取った背景には、正室・小松姫を通じて結ばれた徳川との深く抜きがたい縁があった。また、義父・本多忠勝という存在の重みもまた、信之を徳川方へと強く引き寄せる大きな力となっていたに違いない。しかし、いかに大義や打算があろうとも、父と弟にいつ刃を向けることになるかもしれぬ立場を選ぶことは、一人の子として、また一人の兄として、抱いてきた情愛を自らの手で切り裂くに等しい選択であった。

それでも信之は、その内なる迷いや苦しみを決して表に出すことなく、徳川方の一武将として与えられた己の役割を、あくまで淡々と冷静に果たし続けていく。この並外れた自制心こそが、彼の生涯を一貫して貫く強靭さであった。

第二次上田合戦と秀忠の苦戦

関ヶ原の本戦へと急ぐ徳川秀忠の率いる三万余の大軍は、その途上で信之の父・昌幸が籠もる上田城を攻めたが、昌幸の縦横無尽の巧みな守りの前に、思いもよらぬ手痛い足止めを食らうことになった。この第二次上田合戦での長期の攻防により、秀忠はついに関ヶ原の本戦にまったく間に合わないという、徳川家にとって痛恨きわまる大失態を演じてしまう。

皮肉にも信之の実の父が、徳川の跡継ぎを翻弄したのであった。信之自身はこのとき、東軍の一員として実の父が守る城に対峙するという、あまりにも過酷で残酷な立場に置かれていた。肉親と戦場で真っ向から向き合う痛みを、彼は誰にも見せることなく、ただ静かに噛みしめていたであろう。

敗れた父弟の助命に奔走する

関ヶ原の戦いは東軍・徳川方の圧倒的勝利に終わり、西軍についた昌幸と信繁は、敗軍の将として死罪をもはや免れぬ絶体絶命の立場に陥った。ここに至って信之は、兄としての情を、その全霊を尽くして示すことになる。信之は義父・本多忠勝とも力を合わせ、家康・秀忠父子に対して幾度となく必死の嘆願を重ね、自らがこの戦で挙げた戦功に免じて、どうか父と弟の命だけは助けてほしいと訴え続けた。

その真摯な奔走は、やがて徳川方の重臣たちの心をも動かしていった。その結果、昌幸と信繁は死罪を辛くも免れ、紀伊国九度山への配流という形で命を長らえることができた。信之が家をあえて割ったあの選択は、こうして巡り巡って、実の父と弟の生命をも救うことになったのである。

信幸から信之への改名

関ヶ原の戦いののち、信之は自らの名をそれまでの信幸から信之へと改めた。父・昌幸から一字を賜って名乗ってきた幸の字を、この時あえて自らの手で手放したのである。これは西軍についた父・昌幸との縁を明確に断ち、徳川家への揺るぎない忠節を天下に示すための、深慮に基づく政治的な配慮であったと解されている。名を変えることは、すなわち己の立場を鮮明にすることでもあった。一字を捨てるというその行為の背後には、父への断ちがたい複雑な思いと、真田本家をこの先も守り抜いていかねばならぬ当主としての重い覚悟とが、分かちがたく深く織り込まれていたに違いない。

大坂の陣——再び敵となった弟

慶長十九年(1614年)から翌年にかけて戦われた大坂の陣において、蟄居していた九度山を密かに脱した弟・信繁は豊臣方に身を投じ、徳川の大軍を相手に、まさに獅子奮迅というほかない見事な戦いを繰り広げた。真田丸を築いての巧妙な迎撃や、家康の本陣めがけての決死の突撃——弟・信繁がこの戦いで放った目もくらむような武名の輝きは、まさに戦国乱世が最後に咲かせた壮絶な一輪の華であった。

だがそれは、徳川方に立つ兄・信之にとっては、あまりにも複雑な光でもあった。信之自身はこの時すでに病を得ており、みずから陣に赴くことは叶わず、代わりに二人の息子を徳川方の武将として戦場へと送り出した。皮肉にも真田家は、伯父と甥とが敵味方に分かれて戦うという運命をたどることになったのである。

弟の壮絶な最期に寄せる兄の思い

元和元年(1615年)、大坂夏の陣において、信繁はついに徳川家康の本陣に肉薄し、あと一歩というところまで家康を追い詰めながらも、衆寡敵せず力尽きて壮絶な最期を遂げた。日本一の兵と讃えられた弟は、こうして戦場に華々しく散ったのである。敵方の武将として散っていった弟の死を、兄・信之がいったいいかなる思いで受け止めたのか——それを直接に語る記録は乏しく、ただ歴史の行間に深く沈んでいる。

しかしその胸に去来したものは、単純な言葉ではとうてい言い表せぬものであったろう。家を守り抜くために、あえて別々の道を歩むことを選んだ二人の兄弟——一方は不朽の伝説的英雄として、もう一方は家名を確かに継ぐ堅実な当主として。兄・信之は、散った弟の分までも、真田の血を後世へと繋いでいく重い責めを、その双肩に背負ったのである。

信濃松代藩初代藩主として

大坂の陣が終息したのち、信之は徳川の泰平の世において譜代格に準ずる大名として厚く遇され、元和八年(1622年)には旧領の上田から信濃松代へと国替えを命じられ、松代十万石の栄えある初代藩主となった。この国替えは決して左遷の類ではなく、むしろ真田家がより重く枢要な地を任されたことを意味していた。

信之は新たに預かった地においても、それまで長年にわたって培ってきた堅実な統治の手腕を、いかんなく発揮していく。こうして真田信之は、乱世を智略と忍耐で生き抜いた一人の武将から、天下泰平の世を安らかに治める一藩の藩主へと、その果たすべき役割を、実に見事に転じてみせたのである。

長い治世と善政、そして長寿

松代藩主となった信之は、殖産興業や治水、城下町の整備などに惜しみなく力を注ぎ、何よりもまず領民の暮らしを安んじることに、その心を砕き続けた。武勇の誇示よりも地道な民政に重きを置くという姿勢は、生涯を通じて一貫していた。妻・小松姫は元和六年(1620年)に信之に先立って世を去ったが、信之自身は驚くべき長寿を保ち、幾多の家臣や親族を静かに見送りながら、なお藩の重石として君臨し続けた。

そして万治元年(1658年)、九十三歳という戦国武将としては類を見ない長寿を全うし、その波乱の生涯を閉じた。老いた身に一族の重責を負い続け、隠居を望みながらもその座をなかなか退くことができず、家中の安寧のために最晩年まで働き続けたと伝わる。その姿には、家を守るという一事に生涯を捧げた、揺るぎない責任感がにじんでいる。

後世に語り継がれる真田信之

華やかで劇的な弟・信繁の影に、その名はどうしても隠れがちである。しかし真田信之こそ、一族をあえて二つに分けるという骨肉の苦渋の決断を一身に引き受け、真田の家名を戦乱の世から江戸の泰平の世まで、一度も絶やすことなく確かに繋ぎきった、真の立役者であった。義父・本多忠勝が誇った無双の武名、賢夫人・小松姫が支えた家庭、そして父・昌幸と弟・信繁への断ちがたい情——それらすべてを一身に背負いながら、信之は決して一時の感情に流されることなく、ただ家を守り抜くという一事を、生涯を通じて静かに貫き通した。

派手な武功の陰にある堅実さ、華麗な英雄譚の裏にある責任の重さ。真田信之という一人の武将が歩んだ長い生涯は、真に一族を守り抜くとは何を意味するのかを、四百年余りの時を経た今もなお、私たちに静かに、そして深く問いかけ続けているのである。

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