つじ しげかつ
| 地域 | 近畿・九州 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 田中吉政配下 |
| 大名家 | 田中吉政配下 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒塗実戦具足 |
| 武将タイプ | 鋭利・忠義 |
辻重勝は田中吉政の家臣で、通称は勘兵衛とされる。関ヶ原の戦いの前哨戦で石田方の杉江勘兵衛を討ったと伝わる。吉政が筑後の大名となると猫尾城(福岡県八女市)の城代を務め、田中家の断絶後は広島の浅野家に仕えたとされる。
田中吉政の家臣
辻重勝は安土桃山時代から江戸時代初期の武士で、田中吉政に仕えた。通称は勘兵衛とされる。生没年や出自ははっきりしない。
主君の田中吉政は近江の出身で、豊臣秀吉のもとで三河岡崎城主となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に属した。
関ヶ原の戦いでの働き
重勝は東軍による岐阜城攻めに従い、続いて河渡(岐阜市)付近での石田勢との戦いに加わった。このとき石田三成の家臣杉江勘兵衛を討ったと伝わる。辻勘兵衛・杉江勘兵衛・渡辺勘兵衛(了)の3人を「三勘兵衛」と呼ぶ話もある。
本戦の後、吉政は敗走した三成の探索を任された。9月21日、近江国伊香郡古橋村付近で三成は田中勢に捕らえられた。
猫尾城代とその後
戦後、吉政は筑後一国32万石余の大名となり、柳川城に入った。重勝は筑後南部の猫尾城(福岡県八女市黒木町)の城代を務めたとされる。猫尾城は中世に黒木氏が拠った山城で、元和元年(1615)の一国一城令で廃城となった。
元和6年(1620)、吉政の子忠政が跡継ぎのないまま没し、田中家は断絶した。重勝はその後、広島藩主浅野長晟に召し抱えられたとされる。
ゆかりの地
- 猫尾城跡(福岡県八女市):重勝が城代を務めたとされる山城
参考にした資料
主君・田中吉政
田中吉政は近江の出身で、はじめ豊臣秀次の家老を務めました。関ヶ原の後、石田三成を捕らえた功もあって筑後一国、三十万石余りを与えられ、柳川城を本拠としました。
筑後の支城
吉政は、柳川城を本城とし、久留米城や猫尾城など国内の城に重臣を置いて領国を治めました。重勝が預かった猫尾城も、その一つでした。
猫尾城
猫尾城は、八女市黒木町の山の上にあった城で、もとは黒木氏の城とされます。筑後から豊後へ向かう道を押さえる位置にありました。
一国一城令
元和元年(1615年)の一国一城令で、各地の支城の多くは取り壊されました。猫尾城も、このころに廃城になったとされます。
田中家の断絶
吉政の跡を継いだ田中忠政には跡継ぎがなく、元和6年(1620年)に忠政が亡くなると田中家は断絶しました。家臣たちは新しい仕官先を探すことになりました。
浅野家での奉公
重勝はその後、広島の浅野家に仕えたとされます。浅野家は安芸と備後の一部を治めた大名で、田中家の旧臣も含め、多くの武士を召し抱えました。
評価
重勝は、関ヶ原での働きと筑後での城代の務めで知られる武士です。大名家の断絶とともに主を変えた生き方は、江戸時代の初めの多くの武士に共通するものでした。
このイラストについて
このイラストは、城の石垣と櫓を背に立つ重勝の姿を描いています。
落ち着いた表情と、甲冑の上に羽織をまとった姿で、城を預かる城代としての重みを表しました。
くすんだ空の色は、主家の断絶など、重勝が生きた時代の移り変わりをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。
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