別所吉親 | 別所長治の叔父、三木合戦で籠城を主導した一門

別所吉親のイラスト(イメージ)

べっしょ よしちか

地域近畿
所属勢力・属性播磨別所家一門・長治の後見
大名家別所家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ強硬・主戦型

別所吉親は、播磨の三木城主・別所長治の叔父で、賀相とも書く。若い長治を後見し、織田信長に背いて三木城に籠もった三木合戦で中心的な役割を果たした。天正8年(1580)の落城のときに亡くなった。

目次

東播磨の名門・別所家

別所家は播磨守護の赤松氏の一族である。長治の曾祖父・則治のころから三木城を本拠とし、東播磨で大きな力をふるった。三木城は15世紀末ごろに則治が築いたと考えられ、戦国時代の播磨でも屈指の大きな城だった。

吉親は、長治の父・長勝(安治)の弟にあたる。弟には重棟(重宗とも)がいた。兄の死後、吉親と重棟は若い当主の長治を支える後見役となった。生年はわかっていない。

三木合戦と籠城

天正6年(1578)、長治は織田信長に背き、毛利氏の側についた。軍記物の『別所長治記』は、この離反を吉親がそそのかしたと書いている。一方、弟の重棟は織田方に残り、兄弟は敵と味方に分かれた。

羽柴秀吉は三木城を囲み、食料を断つ兵糧攻めを行った。これは「三木の干し殺し」と呼ばれる。吉親は籠城の中心にいて、天正7年(1579)2月には秀吉勢をおびき出す策を軍議で出したとされる。同年9月には城から打って出て兵糧の運び入れをはかったが、失敗に終わった。

落城と最期の諸説

籠城はおよそ2年に及んだ。天正8年(1580)1月11日には三木城の新城(君ヶ峰城)が攻め落とされ、籠城は限界を迎えた。長治は城兵の命と引きかえに切腹することを受け入れ、1月17日に城は開かれた。

吉親の最期には諸説ある。長治とともに自害したとする見方がある。一方、軍記物によれば、吉親は信長に首を渡すのを嫌って城に火をかけようとし、家臣にとがめられて討たれたという。その首は京都へ送られたと伝わる。

妻・波と子どもたち

吉親の妻は波といい、畠山総州家の娘とされる。二人の間には2男1女がいたという。落城のとき、波は3人の子を手にかけて自らも命を絶ったと伝わる。ただし、乳母に救われた男の子が別所伝右衛門として生き延びたという説もある。

ゆかりの地

  • 三木城跡(兵庫県三木市):別所家の居城。三木合戦の舞台となった

参考にした資料

別所吉親とは

別所吉親は、播磨の別所家の一族で、三木城主・別所長治の叔父にあたります。

三木合戦

天正6年(1578年)、別所長治は信長に背き、三木城に籠もりました。秀吉は、この城を長く囲みました。

三木の干殺し

秀吉は、三木城への兵糧の道を断ち、城を飢えさせる戦い方をとりました。これは「三木の干殺し」と呼ばれます。

落城

天正8年(1580年)、長治は城兵の命を助けることを条件に自害し、三木城は落ちました。吉親の最期には諸説があります。

評価

吉親は、別所家の一族として三木合戦で籠城を主導したとされる人物です。その最期とともに、別所家の三木城は終わりを迎えました。

このイラストについて

このイラストは、煙の上がる城を背に、兜をかぶった吉親を描いています。

重々しい甲冑と厳しい表情で、長い籠城を戦った武将の覚悟を表しました。

煙の上がる城と陣は、三木合戦の三木城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

別所家

播磨の守護・赤松氏の一族で、東播磨の三木城を本拠とした家。別所長治の代に織田信長に従ったが、1578年に毛利方へ寝返った。

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家臣団

別所重宗のイラスト(イメージ)淡河定範神吉頼定のイラスト(イメージ)
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