車丹波守 | 佐竹家屈指の猛将(車斯忠)。佐竹家の秋田移封に激怒し、水戸城奪還の謀反を起こして徳川幕府に捕らえられ磔となった不屈の侍

くるま たんばのかみ

地域関東
所属勢力・属性佐竹家臣
大名家佐竹
家紋丸に違い鷹の羽
主武器大太刀
衣装・甲冑漆黒重厚具足
武将タイプ「車絞り」・執念の反逆

佐竹家屈指の猛将(車斯忠)。佐竹家の秋田移封に激怒し、水戸城奪還の謀反を起こして徳川幕府に捕らえられ磔となった不屈の侍。「車絞り」・執念の反逆と評され、周囲からの信頼も厚かったと伝わる。

目次

佐竹家に仕えた武将

車丹波守は、名を斯忠といい、常陸の佐竹家に仕えた武将です。

車家

車家は、もとは陸奥の岩城家に仕えた家とも伝えられ、のちに佐竹家に仕えるようになったとされます。

勇猛な武将

斯忠は、勇猛な武将として知られ、佐竹家の戦いで活躍したと伝えられます。

関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いのとき、佐竹義宣は東軍・西軍のどちらにもはっきりとつかない態度をとりました。

上杉家とのつながり

斯忠は、会津の上杉景勝と結ぶことを主張したとされます。

佐竹家の転封

1602年、佐竹家は常陸から出羽の秋田に移されました。所領も大きく減らされました。

常陸に残る

佐竹家が秋田に移る中で、斯忠は常陸に残ったとされます。

水戸城の奪還計画

斯忠は、佐竹家の旧臣たちとともに、水戸城を取り戻そうと計画したと伝えられます。

計画の発覚

しかし、この計画は事前に知られてしまいました。

処刑

斯忠は捕らえられ、処刑されたと伝えられます。この事件は「車丹波の乱」とも呼ばれます。

佐竹家への忠義

斯忠の行動は、故郷を離れた佐竹家への忠義によるものだったとも考えられています。

水戸のその後

佐竹家が去った後、水戸には家康の子が入り、のちに水戸徳川家が治めることになりました。

車家のその後

斯忠の子孫は、その後佐竹家に仕えたとも伝えられます。

伝承と史料

斯忠の事績については、史料が少なく、伝承によって伝えられている部分もあります。

佐竹家の転封の理由

佐竹家が秋田に移されたのは、関ヶ原の戦いのときの曖昧な態度が家康に疑われたためとされます。

秋田への道

佐竹家の家臣の多くは、主君に従って遠い秋田に移りました。一方で、常陸に残った者たちもいました。

水戸城

水戸城は、佐竹家が常陸の本拠とした城でした。斯忠にとっては、取り戻したい主家の城だったのです。

車斯忠の名

車丹波守の名は斯忠といい、「車丹波」の名で広く知られています。

佐竹義宣

佐竹義宣は、関ヶ原の戦いのとき、石田三成との友情などから東西どちらにもはっきりとつかなかったとされます。

久保田藩

秋田に移った佐竹家は、久保田城を本拠として秋田藩(久保田藩)を治め、明治まで続きました。

斯忠の評価

車丹波守斯忠は、佐竹家の勇将として知られ、佐竹家の秋田への転封の後、水戸城の奪還を図って処刑されたと伝えられる人物です。その最期は、主家を失った武士の抵抗の物語として語り継がれています。

このイラストについて

兜をかぶった猛々しい武将が刀を手にし、炎の立ちのぼる空を背にした姿です。

猛々しい表情と刀を手にした姿は、勇猛な武将として知られた斯忠をイメージしています。炎の立ちのぼる空は、水戸城の奪還を図ったと伝えられる斯忠の激しい生き方を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

佐竹家

清和源氏の流れをくむ常陸の名門。佐竹義重は「鬼義重」とも呼ばれ、関東へ勢力を広げる北条氏と争い、南奥州にも進出して伊達政宗とも戦った。

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主家

家臣団

佐竹義宣真壁房幹
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