しもつま らいせい
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 本願寺家臣 |
| 大名家 | 本願寺 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍・太刀 |
| 衣装・甲冑 | 僧威具足 |
| 武将タイプ | 勇猛・武者僧 |
下間頼盛(しもつま らいせい)は戦国時代前期の本願寺の坊官。父は下間頼玄、兄は頼秀。享禄4年(1531年)の加賀の大小一揆で加賀の一門寺院を倒した。天文の錯乱では細川晴元との和睦に反対して失脚し、1539年に堺で暗殺された。
本願寺の坊官・下間氏
下間氏は、本願寺の宗主に仕えて寺務や軍事を担った坊官(寺の家臣)の家である。頼盛の父は下間頼玄、兄は頼秀。通称は源七で、のちに民部少輔・備中守を名乗った。法名は心了。生年は分かっていない。
当時の本願寺宗主は10代の証如で、まだ幼かった。そのため下間氏ら側近が大きな力を持った。
加賀の大小一揆
加賀国(石川県南部)は、15世紀末から一向一揆が実権を握る国であった。その中で、蓮如の子らが開いた「賀州三ヶ寺」が大きな力を持っていた。
頼盛は享禄元年(1528年)に加賀へ赴いた。享禄4年(1531年)、本願寺中央と賀州三ヶ寺の対立が戦いになった。これを大小一揆(享禄の錯乱)という。頼盛は本願寺中央側の「大一揆」に属して戦い、賀州三ヶ寺を壊滅させた。約半年の戦いの末、加賀は本願寺中央の支配下に置かれた。大一揆は本願寺中央と超勝寺・本覚寺の側、小一揆は賀州三ヶ寺の側を指す。
天文の錯乱と失脚
天文元年(1532年)、本願寺は細川晴元と対立し、山科本願寺は焼かれた。本願寺は大坂に拠点を移し、晴元との戦いが続いた(天文の錯乱)。
天文2年(1533年)に和睦の動きが出ると、頼盛はこれに反対した。翌年には証如を連れ出して和睦を破らせたとされる。しかし天文4年(1535年)、本願寺は晴元と再び和睦し、主戦派の頼盛は父・兄とともに失脚した。
暗殺
失脚後も頼盛は抵抗を続け、天文5年(1536年)には摂津の中嶋城で敗れた。天文7年(1538年)には兄の頼秀が暗殺された。頼盛も天文8年(1539年)7月21日、堺で殺された。証如の送った刺客によるとされる。
ゆかりの地
- 山科本願寺跡(京都市山科区):天文元年に焼かれた本願寺の旧本拠。天文の錯乱の舞台

















