星野鎮元 | 筑後星野氏、高鳥居城で兄と討死

星野鎮元のイラスト(イメージ)

ほしの しげもと

地域筑後国(福岡県)
所属勢力・属性筑後国人・星野氏
大名家星野氏(大友氏、のち秋月氏・島津氏に従う)
家紋―
主武器刀・槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ猛将・籠城戦

星野鎮元は、筑後国の山あい、生葉郡の星野村を本拠とした国人・星野氏の武将である。名乗りは吉兼、民部少輔とも伝わる。天正14年(1586)、兄の星野鎮胤(吉実)とともに筑前の高鳥居城を守り、立花宗茂に攻められて兄弟そろって討死した。

目次

筑後の山城を守った星野氏

星野氏は、嘉禄2年(1226)ごろに筑後の星野の地に入ったとされる家である。そこから18代にわたり、生葉郡(いまのうきは市と八女市星野村のあたり)に勢力を保った。

星野氏は、本星野の館や福丸城を拠点とし、その詰めの城として耳納連山の鷹取山(標高802メートル)に鷹取城を築いた。鷹取城は10代の鎮種が築き、18代の鎮胤が改修して移ったとされる。とても高い場所にある山城として知られ、いまも土塁や堀切、畝状竪堀群が残る。

大友氏から島津方へ

戦国時代の星野氏は、豊後の大友氏に従っていた。しかし天正6年(1578)の耳川の戦いで大友氏が島津氏に大敗すると、筑後の国人たちはゆれ動いた。星野氏も大友氏を離れ、島津氏に味方する秋月氏の側についたとされる。

鎮元は当主の鎮胤の弟とされる。鎮胤は中務大輔、鎮元は民部少輔を名乗ったと伝わる。兄弟は力を合わせて家を支えた。

高鳥居城の戦い

天正14年(1586)、島津氏は九州の北へ兵を進め、大友方の立花山城を攻めた。このとき島津氏は、筑前の高鳥居城(いまの福岡県須恵町)に星野兄弟を置いて守らせたとされる。

ところが豊臣秀吉の九州平定軍が近づくと、島津軍は南へ引き上げた。残された高鳥居城は、同年8月、立花統虎(のちの宗茂)に攻められて落ちた。鎮胤と鎮元の兄弟は、そろって討死したと伝わる。高鳥居城はこの戦いの後、廃城となった。

その後の星野氏

兄弟の討死によって、筑後の星野氏は勢力を失い、一族は離散したとされる。鎌倉時代から続いた山の領主の歴史は、ここでひと区切りを迎えた。

明治22年(1889)5月、星野氏の子孫の人々が、本星野の館のまわりに散らばっていた墓石を集め、「星野氏累代の墓」の碑を建てた。いまも縁のある人々によって供養が続けられ、八女市の史跡に指定されている。

ゆかりの地

  • 鷹取城跡(福岡県八女市星野村):鷹取山の山頂にある星野氏の山城。畝状竪堀群などが残る。
  • 星野氏墓所(福岡県八女市星野村本星野):明治22年に子孫が建てた「星野氏累代の墓」。八女市指定史跡。
  • 高鳥居城跡(福岡県糟屋郡須恵町):鎮元が兄とともに守り、討死した城。

参考にした資料

星野鎮元とは

星野鎮元は、筑後の星野氏の一族です。名前の「鎮」の字は、大友義鎮から受けたものと考えられます。

山城の守り

星野氏は、筑後の山あいに城を構えて、その地を守りました。

島津方へ

大友家の衰えの中で、星野氏は島津方につきました。

評価

鎮元は、星野氏の一人として、筑後と筑前の山城を守って戦った武将です。

このイラストについて

このイラストは、山城と旗を背に、腕を組んで立つ鎮元を描いています。

風になびく髪と若々しい顔で、山城を守った若い武将の姿を表しました。

霧の立つ山々と城は、星野氏が守った山城をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

星野家

筑後の生葉郡・竹野郡を本拠とした国衆。妙見城や白石城などを拠点とした。

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