もとやま しげむね
| 地域 | 四国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 土佐本山氏 |
| 大名家 | 土佐本山氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 国人領主 |
本山茂宗(梅慶)は戦国時代の土佐の国人領主である。山間の本山城から高知平野の朝倉城に拠点を移し、土佐吉良氏を滅ぼして土佐中央部に勢力を広げた。長宗我部国親とは婚姻で結ばれたが、茂宗の死後、本山氏は衰えた。
土佐の本山氏
本山茂宗は法名を梅慶という。実名は清茂とする見方もあり、高知市は「本山梅慶(清茂)」と表記する。永正5年(1508)生まれとされる。
本山氏は土佐北部の山間部、本山(現在の本山町)を本拠とした国人である。戦国時代の土佐では本山・吉良・安芸・香宗我部・大平・津野・長宗我部の各氏が争い、土佐七雄と呼ばれた。
永正5年(1508)には、本山氏を含む国人たちが長宗我部氏の岡豊城を攻め落としたとされる。長宗我部氏は一時没落し、のちに国親が再興した。
朝倉城への進出
茂宗は山間の本山から高知平野へ進出した。天文年間の初めごろまでに朝倉城(現在の高知市朝倉)を拠点としたとみられる。本城の本山城は子の茂辰に譲ったとされる。
茂宗・茂辰の父子二代で、高知平野の西部から浦戸湾西岸に広がる勢力圏を築いた。天文9年(1540)ごろには土佐吉良氏を滅ぼしたとされ、本山氏は土佐中央部で最大級の勢力となった。
長宗我部氏との関係と死後
同じころ、岡豊城の長宗我部国親も勢力を回復しつつあった。国親は娘を茂辰に嫁がせ、両家は婚姻で結ばれた。
茂宗は弘治元年(1555)に没した。茂宗の死後、本山氏と長宗我部氏の力の均衡は崩れた。永禄3年(1560)に両氏は戦い、本山氏は劣勢となった。永禄6年(1563)1月、茂辰は朝倉城を焼いて本山へ退いた。本山氏はのちに長宗我部元親に降った。
茂辰の子の親茂(貞茂)は元親に仕え、長宗我部氏の家臣として戦ったとされる。
ゆかりの地
- 朝倉城跡(高知市):茂宗が拠点とした城。高知市指定史跡
- 本山城跡(本山町):本山氏の本城
参考にした資料
土佐の本山家
茂宗は、土佐の本山を本拠とした本山家の当主です。出家して梅慶とも名乗りました。
土佐七雄
戦国時代の土佐には、「土佐七雄」と呼ばれる有力な国衆がいました。本山家は、その中でも最も大きな勢力を持つ家の一つでした。
本山城
本山家の本拠は、土佐の北部の山あいにある本山城でした。
勢力の拡大
茂宗は、山あいの本山から土佐の平野部へと勢力を広げました。
朝倉城
茂宗は、高知平野の西部にある朝倉城を拠点とし、土佐の中央部に大きな勢力を築きました。
長宗我部家との争い
茂宗の時代、長宗我部家は、ほかの国衆に攻められて当主の兼序が亡くなるなど、苦しい立場にありました。本山家は、この攻撃に加わった家の一つとされます。
長宗我部国親
兼序の子の国親は、一条家の保護を受けて成長し、のちに岡豊城に戻って長宗我部家を立て直しました。
国親との和睦
茂宗は、国親と和睦を結び、国親の娘を子の茂辰の妻に迎えたとされます。
最期
茂宗は1555年に亡くなりました。
子の茂辰
茂宗の死後、本山家は子の茂辰が継ぎました。
長宗我部家との戦い
茂辰の時代、本山家は長宗我部国親・元親と争うようになりました。
長浜の戦い
1560年の長浜の戦いで、本山軍は長宗我部軍に敗れました。この戦いは、長宗我部元親の初陣として知られます。
本山家の衰退
その後、本山家は次第に追い詰められ、元親に従うことになりました。
土佐統一への道
本山家を下したことで、元親は土佐の統一へと大きく前進しました。
茂宗の評価
茂宗は、土佐七雄の中でも最大級の勢力を築いた本山家の当主です。その死後、本山家は長宗我部家に押されていきましたが、茂宗の時代は本山家の最盛期でした。
このイラストについて
白髪の老将が羽の扇を手にし、山並みと山城を背にした姿です。
羽の扇と年長の姿は、本山家の最盛期を築いた当主としての茂宗をイメージしています。背景の山並みと山城は、本山家が本拠とした土佐の北部の山あいの風景を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
土佐中部を本拠とした「土佐七雄」の一つ。本山茂宗(梅慶)の代に土佐中部に大きな勢力を広げ、長宗我部氏をしのぐ力を持っていた。
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