おなみひめ
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 陸奥二階堂氏 |
| 大名家 | 二階堂氏 |
| 家紋 | 丸に三ツ割り丸た |
| 主武器 | 短刀 |
| 衣装・甲冑 | 女城主・尼僧衣装 |
| 武将タイプ | 「須賀川の女城主」・不屈 |
二階堂盛義の正室(伊達政宗の伯母・大乗院)。夫の死後、実の甥である伊達政宗の侵攻に対し須賀川城の指揮を執り徹底抗戦した烈婦。
伊達晴宗の娘
阿南姫は、陸奥の伊達晴宗の娘です。伊達輝宗の姉にあたり、伊達政宗の伯母です。
二階堂家に嫁ぐ
阿南姫は、陸奥の須賀川を本拠とした二階堂盛義に嫁ぎました。
須賀川城
二階堂家の本拠は須賀川城でした。現在の福島県須賀川市にあたります。
子の行方
阿南姫の子の盛隆は、蘆名家の養子となり、蘆名家の当主となりました。
夫と子の死
夫の盛義と、子の盛隆は相次いで亡くなりました。
須賀川城の城主に
夫と子を失った後、阿南姫は出家して大乗院と名乗り、須賀川城の実質的な城主となりました。
甥の政宗との対立
甥の政宗は、南奥州で勢力を広げ、1589年には摺上原の戦いで蘆名家を破りました。
政宗に従わず
政宗は伯母の阿南姫に降伏を求めましたが、阿南姫はこれを拒みました。
須賀川城の戦い
1589年、政宗は須賀川城を攻めました。
落城
城内から内通する者が出たこともあり、須賀川城は落城しました。
城を去る
阿南姫は命を助けられましたが、政宗のもとに身を寄せることを拒み、岩城家や佐竹家を頼ったとされます。
最期
1602年、佐竹家が出羽の秋田に移されると、阿南姫はこれに従わず、須賀川へ帰る途中で亡くなったと伝えられます。
須賀川の松明あかし
須賀川では、須賀川城の戦いで亡くなった人々を弔う「松明あかし」という火祭りが、今も毎年行われています。
戦国の女城主
阿南姫は、夫と子を失った後も城を守り、甥である政宗にも屈しなかった女城主として知られています。
伊達家の娘として
阿南姫は、伊達家から嫁いだ身でありながら、二階堂家の人間として生きることを選びました。
伊達家の婚姻政策
伊達晴宗は、多くの子どもたちを南奥州の家々に嫁がせたり養子に入れたりして、勢力を広げました。阿南姫の嫁入りも、その一つでした。
二階堂家の終わり
須賀川城の落城によって、鎌倉時代から続いた二階堂家は大名としての歴史を閉じました。
須賀川
須賀川は、現在の福島県須賀川市にあたり、奥州街道の宿場町としても栄えました。
二階堂家
二階堂家は、鎌倉幕府の政所執事を務めた二階堂家の流れをくむとされる名門でした。
大乗院
阿南姫は、夫と子を失った後に出家し、大乗院と名乗りました。
阿南姫の評価
阿南姫は、伊達家の娘でありながら、嫁ぎ先の二階堂家の城主として甥の政宗に立ち向かった女性です。その気丈な生き方は、須賀川の人々に今も語り継がれています。
このイラストについて
頭巾をかぶった年配の女性が、曇り空と煙の立つ城を背にした姿です。
頭巾をかぶった姿は、夫と子を失った後に出家して大乗院と名乗り、須賀川城を守った阿南姫をイメージしています。煙の立つ城は、甥の政宗に攻められた須賀川城の戦いを表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉幕府の政所執事を務めた二階堂氏の流れをくむ家で、陸奥の須賀川城を本拠とした。二階堂盛義は伊達晴宗の娘・阿南姫を妻に迎え、蘆名氏や伊達氏との間で家を保った。
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