しみず むねとも
| 地域 | 備中国(岡山県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利氏(小早川隆景)方の国人 |
| 大名家 | 清水氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 出家後は僧形 |
| 武将タイプ | 忠義型 |
清水宗知は、備中高松城主・清水宗治の兄である。長男でありながら家督を弟に譲り、出家して月清入道と名乗った。天正10年(1582)の備中高松城の戦いで、城兵の命と引き換えに弟とともに切腹した。
清水家の長男として
宗知は、備中国の国人・清水宗則の長男と伝わる。通称は六郎兵衛とされる。清水家はのちに毛利氏の一族である小早川隆景に従い、毛利方として戦った家である。
宗知は長男であったが、家督は弟の宗治が継いだ。宗知は出家して月清入道と名乗った。宗治は備中高松城の城主となり、毛利方の有力な武将として知られるようになる。宗知は出家したあとも弟のそばにいて、ともに働いたと伝わる。
備中高松城の水攻め
天正10年(1582)5月、織田信長の命で中国地方を攻めていた羽柴秀吉は、3万の軍勢で高松城を囲んだ。秀吉は黒田官兵衛の策を用い、城のまわりに全長約3kmの堤防を築いて足守川の水を引き入れた。城は水に沈み、毛利の援軍も近づけなくなった。宗知も弟とともに城にこもっていた。
そのさなかに本能寺の変が起こる。秀吉は毛利氏と早く和睦するため、条件をゆるめた。城主宗治が切腹すれば、城兵5千人の命は助けるというものである。
弟とともに切腹
6月4日、宗治は城を出て、秀吉から贈られた酒で最後の宴を開いたのち、湖となった城のまわりに浮かぶ舟の上で切腹した。宗知もこのとき弟とともに腹を切った。宗治の実弟の難波伝兵衛、毛利家から加勢に来ていた末近信賀らも運命をともにしたとされる。
秀吉はこの最期を「古今武士の明鑑なり」とたたえたと伝わる。高松城跡にある宗治の首塚では、五輪塔の後ろに刻まれた2体の地蔵のうち1体が月清入道を表すとされ、末近信賀とともに祀られている。
清水家のその後
清水家は宗治の死で絶えたわけではない。宗治の次男・景治は小早川隆景に仕え、「景」の字を隆景から与えられた。隆景が亡くなると毛利本家に移った。
江戸時代、清水家は長州藩の重臣として2500石余りを知行し、代々続いた。幕末から明治にかけても要職をつとめ、明治33年(1900)には華族に列している。兄弟が城兵の命を守ったことで、清水家の名は後の世まで残ったのである。
ゆかりの地
- 備中高松城跡(岡山県岡山市北区高松):水攻めの舞台。清水宗治の首塚があり、月清入道もあわせて祀られる
- 妙玄寺(岡山県岡山市北区高松):高松城跡の近くにある寺。水攻めと清水宗治の歴史を伝える
参考にした資料
清水宗知とは
清水宗知は、備中の清水家の出身で、清水宗治の兄にあたる人物です。月清入道とも呼ばれました。
備中高松城
宗知は、弟の宗治とともに備中高松城に籠もりました。
水攻め
天正10年(1582年)、秀吉は高松城を水攻めにしました。城は水に囲まれ、孤立しました。
弟とともに
和睦の条件として宗治が切腹すると、宗知もともに命を絶ったと伝えられます。
評価
宗知は、弟の宗治とともに高松城で最期を迎えた人物です。その姿は、水攻めの物語とともに語り継がれています。
このイラストについて
このイラストは、水辺の城を背に立つ宗知を描いています。
烏帽子形の兜と落ち着いた表情で、弟とともに城を守った兄の覚悟を表しました。
水辺の城は、水攻めを受けた備中高松城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
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安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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