おだ うじはる
| 地域 | 関東 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 常陸小田氏 |
| 大名家 | 常陸小田氏 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 「不死鳥」・常陸の戦国大名 |
小田城主。「戦国最弱」と揶揄されながらも城を奪われるたびに何度でも奪還した「不死鳥」。佐竹義重や上杉謙信と幾度も死闘を演じた愛される英雄。
常陸の名門小田家
氏治は常陸の小田城を本拠とした小田家の当主です。小田家は鎌倉時代から続く八田氏の流れをくむ名門で、筑波山のふもとに勢力を持っていました。
家督を継ぐ
氏治は父政治の跡を継いで当主となりました。しかし周りには、北の佐竹家、西の結城家、南の北条家と強い勢力がひしめいており、小田家は厳しい立場に置かれていました。
海老ヶ島の戦い
1556年、氏治は結城政勝と戦った海老ヶ島の戦いで敗れ、小田城を失いました。しかしその後、城を取り戻しています。これが、氏治の「城を失っては取り戻す」生涯の始まりでした。
上杉謙信との戦い
1564年、氏治は関東に出兵した上杉謙信と戦い、山王堂の戦いで敗れて再び小田城を失いました。それでも氏治は再び城を取り返そうとします。
佐竹家との長い争い
氏治の最大の敵は、常陸統一を目指す佐竹義重でした。佐竹家の家臣真壁氏幹や太田資正らとの戦いが続き、小田城は何度も奪われては取り返されました。
手這坂の戦い
1569年の手這坂の戦いでは、氏治は太田資正・真壁氏幹らの軍に大敗し、小田城を失いました。その後も取り戻そうとしましたが、次第に城に戻ることは難しくなっていきました。
家臣たちの支え
氏治は戦に負け続けましたが、家臣の菅谷氏らは最後まで氏治を見捨てませんでした。小田城を失った後も、菅谷氏の土浦城などを拠点に戦いを続けています。
領民に慕われた殿様
小田城を奪われるたびに、領民たちが氏治の帰還を助けたという話が伝わっています。家臣だけでなく、領民からも慕われる人柄だったと考えられています。
「戦国最弱」の愛称
合戦に負け続けたことから、氏治は近年「戦国最弱の武将」と呼ばれ、親しみを込めて語られるようになりました。何度敗れても立ち上がる姿が、多くの人の共感を呼んでいます。
小田原征伐と改易
1590年の小田原征伐の際、氏治は豊臣秀吉への対応が遅れ、北条方とみなされて所領を失いました。こうして戦国大名としての小田家は終わりを迎えました。
結城秀康のもとで
その後、氏治は徳川家康の次男で結城家を継いだ結城秀康のもとに身を寄せました。秀康が越前に移ると、氏治もそれに従ったとされます。
最期
氏治は1602年に亡くなりました。城を失いながらも生き延び、戦国時代の終わりを見届けた生涯でした。
氏治の評価
氏治は合戦の勝ち負けだけで見れば「弱い」武将でしたが、家臣や領民に支えられ、何度も立ち上がった粘り強さは特筆すべきものです。勝敗だけでは測れない、戦国武将のもう一つの姿を伝える人物といえます。
このイラストについて
甲冑姿で穏やかな笑みを浮かべ、城を背にした姿です。背後には、笑顔で手を振る領民たちが描かれています。
氏治は戦に負けて小田城を奪われても、領民の助けで城を取り戻したという話が伝わっています。笑顔の領民たちは、家臣や領民に慕われた氏治の人柄をイメージしたものです。強面の武将ではなく、親しみやすい表情で描いたのも、「戦国最弱」と呼ばれながら愛された氏治らしさを表すためです。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
常陸の小田城を本拠とした家で、鎌倉時代からの名門・八田氏の流れをくむ。小田氏治は佐竹氏や上杉謙信、北条氏との戦いで何度も小田城を失ったが、そのたびに取り戻した。
小田家の歴史と武将一覧を見る →

























