さとう さいじろう
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 佐藤氏(鉈尾山城主)・豊臣大名 |
| 大名家 | 織田 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 長槍 |
| 衣装・甲冑 | 軽捷具足 |
| 武将タイプ | 関ヶ原で西軍についた美濃の城主 |
美濃上有知・鉈尾山城主の佐藤方政(通称才次郎)。関ヶ原で西軍に属して領地を失い、最期は大坂の陣での戦死説と日龍峯寺での自害伝承がある。
上有知の佐藤氏と才次郎方政
佐藤才次郎は、美濃国武儀郡上有知(こうずち、現在の岐阜県美濃市)を本拠とした佐藤氏の武将である。辞典では佐藤方政(かたまさ)の名で立項されており、才次郎(才治郎とも書く)は通称である。生年は分かっていない。
佐藤氏の居城は上有知の鉈尾山城(なたおやまじょう)である。応仁年間に佐藤宗信が築いた城を、天文9年(1540年)に佐藤清信が改築したとされる。清信の子で方政の父にあたる秀方(六左衛門)は、斎藤氏に仕えたのち織田信長に従ったとされる。
日本人名大辞典によると、方政は豊臣秀吉の九州攻め・小田原攻めに従い、文禄2年(1593年)に父の跡を継いで鉈尾山城主(2万石)となった。
関ヶ原で西軍に属し、領地を失う
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、方政は西軍に加わった。岐阜城の織田秀信とともに東軍と戦ったが、敗れて退いた。岐阜県観光連盟の案内では、この戦いを新加納の戦いと呼んでいる。戦後、領地と城は取り上げられた。
上有知の地は、方政の母の弟にあたる金森長近に与えられたとされる。長近は慶長10年(1605年)ごろ小倉山城を築いて移り、鉈尾山城は廃城になったとされる。
最期をめぐる二つの説
方政の最期については説が分かれる。日本人名大辞典は、のちに大坂城に入り、落城の前日にあたる慶長20年(1615年)5月7日に戦死したとする。ただし、大坂での戦死は別の佐藤氏の記録と混同されているとする見方もある。
一方、関市下之保の日龍峯寺(高澤観音)には、方政が従臣とともに同寺で自害したとの言い伝えがある。山腹にあった供養塔は荒れていたが、関ヶ原の戦いから400年を機に本堂前へ移された。
なお、美濃には加治田城主の佐藤紀伊守忠能という人物もいる。忠能は永禄8年(1565年)の信長の中濃攻めで信長に内応した。上有知の佐藤才次郎とは居城が異なるので、混同しないよう注意したい。
ゆかりの地
- 鉈尾山城跡(岐阜県美濃市):佐藤氏の居城。古城山(標高437m)の山頂にあった
- 日龍峯寺(岐阜県関市下之保):本堂前に方政の供養塔(佐藤才治郎方政公及び武将の塔)がある。方政が自害したとの言い伝えの地




































