れいぜい たかとよ
| 地域 | 周防・安芸(山口県・広島県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 大内氏家臣 |
| 大名家 | 大内氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 忠臣 |
冷泉隆豊は周防の大内氏に仕えた戦国時代の武将である。大内義興・義隆の二代に仕え、安芸の銀山城主をつとめた。天文20年(1551)の大寧寺の変で主君の義隆を介錯し、自らも命を絶った。
大内家に仕えた武将
隆豊は永正10年(1513)の生まれとされる。永正8年(1511)とする説もある。
大内氏は周防・長門を本拠とし、中国地方から九州北部にまで力を持った大名である。隆豊はまず大内義興に仕え、その子の義隆にも仕えた。
主君の義隆は永正4年(1507)の生まれで、周防など7か国の守護として北九州の支配も固めた。明や朝鮮から文物を取り入れ、京都の公家を招いて、山口を文化の都として栄えさせた。フランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教を許したことでも知られる。
安芸の銀山城主
天文10年(1541)、隆豊は安芸国の銀山城の城主となった。安芸は大内氏と出雲の尼子氏が勢力を争った土地で、ここをまかされたことは、隆豊が重く用いられていたことを示している。
大寧寺の変と最期
しかし、武断派の重臣陶晴賢(はじめの名は隆房)は、学問や芸能に熱中する義隆の姿勢に不満をつのらせていた。
天文20年(1551)、大内家の重臣の陶晴賢が謀反を起こした。義隆は追われて長門の大寧寺に逃れ、寺の中で自害した。
隆豊は最後まで義隆のそばを離れなかった。同年9月1日、大寧寺で義隆を介錯し、自らも自刃した。介錯とは、切腹する人の苦しみを短くするため、首を切り落とす役目のことである。39歳であったとされる。
隆豊は辞世の歌として「見よや立つ煙も雲も半空にさそひし風の末も残らず」を残した。主君とともに散る覚悟が読み取れる歌である。主君に殉じた忠臣として、隆豊の名は今も語られている。
最期の地、大寧寺
大寧寺は山口県長門市深川湯本にある曹洞宗の寺である。大内氏はこの寺を保護してきたが、変の兵火で堂宇は焼けてしまった。のちに毛利元就によって再建された。
大寧寺は、室町時代の関東管領上杉憲実が文正元年(1466)に亡くなった地としても知られる。大内氏の歴史の終わりを告げる場所として、今も多くの人が訪れている。
義隆の死で、大内氏の嫡流は絶えた。陶晴賢は翌年、豊後の大友宗麟の弟の晴英(のちの大内義長)を当主に迎え、自らが実権をにぎった。しかし晴賢は弘治元年(1555)、厳島の戦いで毛利元就に敗れて自刃した。その2年後、大内氏の領国は毛利氏に平定された。
ゆかりの地
- 大寧寺(山口県長門市深川湯本):大内義隆が自害し、隆豊も殉じた寺
参考にした資料
冷泉隆豊とは
冷泉隆豊は、周防の大内義隆に仕えた武将です。
銀山城
隆豊は、安芸の銀山城の城主を務めたとされます。
大寧寺の変
天文20年(1551年)、陶隆房(のちの晴賢)が謀反を起こすと、隆豊は主君の義隆に従って長門の大寧寺へ逃れました。
最後まで主君とともに
義隆が自害したのち、隆豊は介錯をつとめ、自らも敵に斬り込んで討死したと伝えられます。
評価
隆豊は、主君・大内義隆に最後まで付き従った忠臣として、大寧寺の変の物語とともに語り継がれています。
このイラストについて
このイラストは、寺と山を背に、鉢巻をしめた隆豊を描いています。
鋭い目つきと黒い甲冑で、最後まで主君を守った忠臣の覚悟を表しました。
山あいの寺は、義隆が最期を迎えた長門の大寧寺をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
周防・長門を本拠とした守護大名で、百済の王族の子孫と称した。大内義興は前将軍足利義稙を擁して上洛し、管領代としておよそ10年にわたって京都の政治を動かした。
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