かじゅうじ みつとよ
| 地域 | 近畿(京都) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 公家(勧修寺家) |
| 大名家 | ― |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 衣冠束帯 |
| 武将タイプ | 江戸幕府最初の武家伝奏 |
勧修寺晴豊の子。慶長8年、江戸幕府最初の武家伝奏となり朝廷と幕府の間を取り次いだ公家。
目次
京都の公家・勧修寺光豊
勧修寺光豊(かじゅうじ みつとよ)は、安土桃山時代から江戸時代初めの公家である。伊予の武将ではない。生年は1575年または1576年とされ、1612年に38歳で没した。
父は勧修寺晴豊で、天正10年(1582)に元服した。勧修寺家は藤原氏の流れをくむ公家の家である。
父の晴豊も武家伝奏を務めた公家で、その日記は本能寺の変前後の朝廷の動きを伝える史料として知られる。光豊は父子二代で朝廷と武家の取次に携わったことになる。
最初の武家伝奏
光豊は慶長8年(1603)、広橋兼勝とともに江戸幕府最初の武家伝奏となり、晩年までこの職を務めた。武家伝奏とは、朝廷と幕府の連絡にあたる役職である。江戸時代には定員2名で、公武の交渉全般に関わった。
慶長17年(1612)に従二位・権大納言となり、没後の元和4年(1618)に内大臣を追贈された。日記『光豊公記』16冊が京都大学に残り、この時期の朝廷と幕府の関係を知る史料となっている。
『光豊公記』は2022年、「京都大学史料叢書」の一冊として思文閣出版から翻刻(活字化)が刊行された。天正18年から慶長17年にかけての日記を収め、原本は京都大学総合博物館が所蔵する。
西園寺十五将との混同について
光豊を「西園寺十五将の一人」とする説明が見られることがある。伊予の西園寺氏の有力武将を数える「西園寺十五将」には、常盤城主の観修寺基栓(かんしゅうじ)の名が挙がる。字の似た別人である。
なお愛媛県史は、応仁の乱のころ公家の勧修寺経茂が宇和の松葉に身を寄せたと記す。ただし光豊とは時代も立場も異なる。























