おだいのかた
| 地域 | 東海(三河・尾張) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 水野氏の娘、松平広忠の妻→久松俊勝の妻 |
| 大名家 | 水野家・松平家・久松家 |
| 家紋 | 不詳 |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | 小袖・打掛、尼頭巾 |
| 武将タイプ | 家康の母 |
於大の方(おだいのかた)は、徳川家康の生母である。享禄元年(1528年)に三河の刈谷城主・水野忠政の娘として生まれ、慶長7年(1602年)に75歳で亡くなった。出家後は伝通院と呼ばれる。家康が3歳のときに離縁されて生き別れとなったが、のちに再会し、家康の天下取りを見届けた。
3行でわかる於大の方
- 刈谷城主・水野忠政の娘で、岡崎城主・松平広忠に嫁いで家康を産んだ
- 兄の水野信元が織田方についたため離縁され、3歳の家康と生き別れた
- 久松俊勝と再婚し、人質となった家康を陰から支え、のちに再会した
目次
家康を産む
於大は刈谷城(愛知県刈谷市)の水野忠政の娘として生まれた。天文10年(1541年)、14歳で岡崎城主の松平広忠に嫁ぎ、翌年、竹千代(のちの徳川家康)を産んだ。
3歳の家康と生き別れ
天文13年(1544年)、於大の兄・水野信元が今川家から離れて織田家についた。今川家に従う松平家は、敵方となった水野家の娘を妻としておくことができず、広忠は於大を離縁した。家康はわずか3歳だった。
その後、家康は今川家の人質となって駿府で育つことになる。
久松家での暮らしと再会
於大は尾張の阿古居城主・久松俊勝と再婚し、三男三女をもうけた。そのあいだも、人質となった家康に着物や菓子を送り続けたと伝わる。
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いのあと、家康は於大と再会した。家康は久松家の異父弟たちに松平の名字を与えて家臣とした。於大は家康が天下人となるのを見届け、慶長7年(1602年)に伏見城で亡くなった。江戸の伝通院に葬られている。
於大の方をめぐる人物
- 父:水野忠政
- 兄:水野信元
- 最初の夫:松平広忠
- 二番目の夫:久松俊勝
- 子:徳川家康/松平康元/松平定勝 ほか
ゆかりの地
- 伝通院(東京都文京区):於大の方の墓所。寺の名は於大の法名から
- 刈谷城跡(亀城公園)(愛知県刈谷市):於大が生まれた城
- 岡崎城(愛知県岡崎市):家康を産んだ城


徳川家康
水野信元
今川義元
松平広忠







































