尼子経久 | 十一国太守と称された出雲の覇者。鮮やかな謀略と下剋上で十一カ国を制覇した戦国屈指の大謀略家

あまご つねひさ

地域中国
所属勢力・属性尼子氏
大名家尼子氏
家紋平四つ目結
主武器太刀・采配
衣装・甲冑重厚具足
武将タイプ「謀聖」・十一国太守
目次

尼子経久とは

尼子経久は、出雲の守護代の家に生まれ、一代で山陰山陽に号令する大勢力を築き上げた戦国大名である。一度は主家に追われ、居城まで奪われながら、わずかな手勢で城を取り戻した。その後は謀略を駆使して勢力を広げ、「謀聖」と称される。北条早雲や斎藤道三と並ぶ下剋上の代表格でありながら、経久には彼らにない一面がある。欲しいと言われたものは何でも与えてしまうという、常識外れの気前の良さである。八十四年という長い生涯を通じて、尼子氏の最盛期を築いた男の歩みをたどる。

出雲守護代の家

経久は長禄二年(1458年)、出雲守護代である尼子清定の子として生まれた。幼名を又四郎という。尼子氏は近江源氏である京極氏の一族で、京極氏が出雲守護を務めるにあたって守護代として現地に置かれた家である。本拠となったのが月山富田城であった。標高およそ二百メートルの山全体を城郭とし、山陰随一の要害と称された。経久は少年期を京都で人質として過ごしたとされる。

応仁の乱の余燼が残る都で、彼は中央の政治を間近に見た。文明十六年(1484年)頃、経久は父の跡を継いで守護代となった。しかし所領の押領などを咎められ、主家である京極政経によって守護代を解任される。経久は月山富田城を追われ、放浪の身となった。三十歳を前にして、家も地位も失ったのである。

元旦の奇襲 — 富田城奪回

文明十八年(1486年)の元旦、経久は月山富田城を奇襲して奪い返した。この奪回には有名な伝承がある。城下に住む鉢屋衆と呼ばれる芸能集団の力を借りたというものである。正月の祝いに芸を披露するという名目で城内に入り込み、隠し持った武器で内部から城を制圧した。守兵は油断しきっていたという。わずか数十人から百人程度の手勢であったと伝えられる。

正面から攻めれば決して落ちない城を、経久は知恵で奪った。この一戦が経久という武将のすべてを象徴している。力ではなく、意表を突くこと。以後の彼の戦いは、常にこの型であった。もっとも鉢屋衆の逸話は後世の脚色を含むとみられている。しかし城を奪回したこと自体は事実であり、そこから尼子氏の飛躍が始まる。

出雲の統一

城を取り戻した経久は、出雲国内の国人領主を一つずつ従えていった。その手法は調略が中心である。敵対する家の内部に不和を作り、当主と家臣を離間させ、無血で寝返らせる。三沢氏、三刀屋氏、赤穴氏といった出雲の有力国人が次々と尼子の傘下に入った。経久はまた、出雲大社や鰐淵寺といった有力寺社との関係を重視した。

信仰の権威を味方につけることは、在地支配の安定に直結する。永正年間には出雲一国をほぼ掌握し、隣接する伯耆・石見へも勢力を伸ばしていく。主家である京極氏の権威は、いつのまにか名目だけのものとなっていた。守護代が守護に取って代わる、典型的な下剋上である。

大内氏との抗争

山陰で勢力を広げる経久の前に立ちはだかったのが、周防の大内義興であった。大内氏は西国随一の大名で、明との貿易を独占し、京にも影響力を持っていた。経久は当初、大内氏に従う姿勢を見せている。永正五年(1508年)、大内義興が足利義稙を奉じて上洛すると、経久もこれに従った。ところがまもなく無断で帰国し、留守を突いて石見や安芸へ手を伸ばす。

大内義興は激怒し、以後、尼子と大内は長い抗争に入る。中国地方は東の尼子、西の大内という二大勢力に分かれた。この間、安芸の国人であった毛利元就も、尼子方と大内方の間で揺れ動いている。経久は一時、元就を配下としていた。経久は石見銀山にも目を付けた。当時開発が進みつつあったこの銀山は、莫大な富を生む。銀山をめぐる争奪は、以後数十年続く。

十一カ国太守

経久の全盛期、尼子氏は出雲・隠岐・伯耆・因幡・石見・美作・備前・備中・備後・安芸・播磨の十一カ国に影響力を及ぼしたと伝えられる。この「十一カ国太守」という称号は、後世の軍記による誇張とみられている。実際に完全支配していたのは出雲を中心とする数カ国であろう。とはいえ、山陰全域と山陽の一部に号令をかけたことは確かである。

守護代の家から出発した勢力としては驚異的な拡大であった。経久が用いたのは、直接支配ではなく国人領主を従属させる方式であった。緩やかな連合体であるがゆえに、急速に広がる。しかしこの方式は脆さも抱えていた。求心力が落ちれば、従っていた国人は一斉に離れる。後の尼子氏の急激な衰退は、この構造に起因する。

相次ぐ肉親の不幸

勢力を広げる一方で、経久の家庭は不幸に見舞われ続けた。永正十五年(1518年)頃、嫡男の尼子政久が阿用城の攻略中に討死する。城内から放たれた矢に当たったとも、笛を吹いていたところを狙われたとも伝えられる。政久は文武に優れた後継者であった。その死は経久にとって計り知れない打撃であり、以後の家督は政久の子である尼子晴久が継ぐことになる。

享禄三年(1530年)には、三男の塩冶興久が反乱を起こした。所領の配分をめぐる不満が原因とされる。父子の争いは四年に及び、興久は敗れて自刃した。経久は実の子を討たねばならなかった。謀略で他家を切り崩してきた男が、自らの家中で同じ構図に苦しむ。皮肉な巡り合わせであった。

毛利元就との関わり

安芸の毛利元就は、当初は尼子方に属していた。大永三年(1523年)に元就が毛利家を継いだ際、経久はこれを支持している。しかし尼子家中では元就への警戒が強く、経久の対応も一貫しなかった。やがて元就は大内氏へ転じる。この離反は、尼子氏にとって致命的な誤りであった。中国地方最大の敵を、自ら育てて手放したことになる。天文九年(1540年)、孫の晴久は三万の大軍を率いて元就の吉田郡山城を包囲した。

しかし元就の巧みな守りと大内の援軍によって大敗を喫する。経久はすでに隠居の身であったが、健在であった。八十を過ぎた老将は、自らが築いた勢力が崩れ始めるのを見届けたことになる。この敗戦を境に、尼子氏の勢威は下降線をたどる。従属していた国人が次々と毛利方へ移っていった。

最期

天文十年(1541年)十一月、経久は月山富田城において没した。享年八十四。当時としては驚異的な長寿である。応仁の乱の余燼が残る時代に生まれ、戦国の只中で世を去った。孫の晴久は経久の死後、大内義隆の侵攻を月山富田城で撃退するなど気を吐いたが、経久が築いた広大な勢力圏を保つことはできなかった。そして経久の死から二十五年後、月山富田城は毛利元就の手に落ち、尼子氏は滅亡する。経久が城を奪い返した文明十八年から数えて八十年。一代で築かれた勢力は、三代で消えたことになる。

欲しがるものは何でも与えた男

経久の人物像として最も有名なのが、無類の気前の良さである。家臣が「見事な鷹でございますな」と褒めれば、その鷹を与えてしまう。庭の松を美しいと言えば、掘り起こして贈ってしまう。あまりに何でも与えるので、家臣たちは「殿の前で物を褒めてはならぬ」と互いに戒め合ったと伝えられる。自らは質素な暮らしを好み、着るものにも食べるものにも執着しなかったという。

この気質は、単なる善人ぶりではない。国人領主の連合体という尼子氏の構造では、家臣を物で繋ぎとめることが統治そのものであった。謀略で敵を切り崩し、恩賞で味方を繋ぎとめる。経久の勢力拡大は、この二つの車輪で回っていた。冷徹な計算と、屈託のない気前の良さ。この両立こそが経久という人物の面白さである。

謀聖と呼ばれて

経久は後世、「謀聖」の名で呼ばれるようになった。謀略の聖人という、矛盾をはらんだ称号である。ただしこの呼称は江戸期以降に定着したもので、同時代の史料に見えるわけではない。同じ下剋上の代表格である北条早雲、斎藤道三、松永久秀と比べると、経久の評価には独特の温かみがある。主家を追い落としながら、憎まれ役として語られない。

気前の良さの逸話が、その印象を大きく和らげているのであろう。実際には、経久のやったことは徹底している。仕えた京極氏を骨抜きにし、抵抗する国人を調略で分断し、実の子さえ討った。それでいて人望を失わなかったところに、この武将の技量がある。

尼子氏三代という物語

尼子氏の歴史は、経久・晴久・義久の三代で語られることが多い。経久が一代で築き、晴久が守りきれず、義久が失う。急激に膨張した勢力が、同じ速さでしぼんでいく典型的な軌跡である。原因は構造にあった。尼子氏の支配は国人領主の従属によって成り立っており、直轄の領地も家臣団も薄かった。当主が強ければ従い、弱れば離れる。

毛利元就が国人衆を段階的に自らの家臣として組み込んでいったのとは対照的である。経久の生き方は、拡大には向いていたが、維持には向いていなかった。それが尼子氏の運命を決めたといえる。もっとも、尼子の名は滅亡後も消えなかった。山中幸盛が十年にわたって再興を試み、その物語が今日まで語り継がれている。

月山富田城という城

経久の生涯を語るうえで欠かせないのが、本拠となった月山富田城である。標高およそ百九十メートルの月山に築かれ、山全体が要塞化されていた。麓から山頂の本丸まで、曲輪が段状に連なる。攻め手は「七曲り」と呼ばれる急坂を登らねばならず、上からは矢と石が降り注ぐ。正面からの攻略はほぼ不可能であった。実際、大内義隆も毛利元就も、力攻めでは落とせなかった。

いずれも長期の包囲と兵糧攻めによってようやく開城させている。その難攻不落の城を、経久はわずかな手勢の奇襲で奪い返した。これがいかに例外的な出来事だったかが分かる。関ヶ原の後、堀尾吉晴が入城したが、まもなく松江へ拠点を移し、城は廃された。現在は国の史跡として整備されている。

経久ゆかりの地をたどる

島根県安来市の月山富田城跡が最大のゆかりの地である。山中御殿から七曲りを登り本丸に立てば、経久が見た景色が広がる。麓の安来市立歴史資料館では、尼子氏三代の歴史と発掘成果が展示されている。城跡には山中幸盛の像と祈月像も建ち、尼子氏の始まりと終わりを同じ場所で辿ることができる。松江市の洞光寺は尼子氏の菩提寺で、経久の墓とされる宝篋印塔が残る。出雲大社や鰐淵寺は、経久が保護し寄進を行った寺社である。在地支配において信仰がどれほど重かったかを実感できる。

新宮党という精鋭

尼子氏の軍事力を語るうえで欠かせないのが、新宮党と呼ばれた部隊である。経久の次男である尼子国久と、その子の尼子誠久が率いた一族の精鋭で、月山富田城の北の新宮谷に居を構えたことからこの名がある。新宮党は尼子軍の主力として各地を転戦し、その武勇は近隣に鳴り響いた。石見や備後の攻略でも中心的な役割を果たしている。しかし力を持ちすぎたことが災いした。当主となった晴久にとって、叔父にあたる国久の存在は脅威であった。

天文二十三年(1554年)、晴久は国久・誠久ら新宮党の主だった者を粛清する。毛利元就の謀略によって疑心を煽られた結果ともいわれる。この粛清によって尼子氏は最強の部隊を失った。ただし近年は、当主の権力を集中させるための必要な措置だったとする再評価もある。誠久の遺児が難を逃れて京へ送られ、後に山中幸盛が担ぎ出す尼子勝久となる。粛清の生き残りが、再興の旗頭となったのである。

石見銀山をめぐって

経久の時代、山陰の情勢を大きく動かしたのが石見銀山であった。大永六年(1526年)頃から本格的な開発が始まり、まもなく世界有数の産出量を誇るようになる。銀は明との貿易における決済手段であり、鉄砲や火薬の輸入にも直結した。銀山を押さえることは、軍事力そのものを押さえることを意味した。

経久は銀山の支配をめぐって大内氏と激しく争った。銀山は幾度も所有者を変え、尼子・大内・毛利の間を行き来している。尼子氏が山陰で長く力を保てたのも、毛利氏が執拗に出雲を求めたのも、この銀山の存在を抜きには語れない。山陰は辺境ではなかった。当時の日本経済の中枢のひとつだったのである。

経久の統治手法

経久の支配は、直轄領を広げるのではなく、在地の国人領主を従属させる形で成り立っていた。従属した国人には所領を安堵し、自治をほぼそのまま認める。求めたのは軍役と忠誠だけである。この方式は摩擦が少なく、拡大の速度が圧倒的に速い。経久が数十年で十一カ国に号令できたのは、この身軽さゆえであった。一方で、当主の求心力が落ちれば一斉に離れる。従属は契約であって、忠誠ではないからである。

経久はその弱点を、恩賞の気前の良さと、離反を許さない苛烈さの両方で補っていた。褒美は惜しまず、裏切りは徹底して討つ。また彼は出雲大社をはじめとする寺社を厚く保護した。武力だけでは届かない領域を、信仰の権威で押さえたのである。中世的な連合の枠内で、可能な限りの支配を実現した。それが経久の到達点であり、同時に限界でもあった。

下剋上の第一世代として

経久が月山富田城を奪い返した文明十八年は、北条早雲が伊豆に討ち入る五年前にあたる。つまり経久は、戦国の下剋上を体現した最初期の人物である。斎藤道三も松永久秀も宇喜多直家も、彼より後の世代にあたる。応仁の乱によって幕府の権威が崩れ、守護大名の統制が緩んだ隙に、守護代や国人が実権を握っていく。経久はその流れの先頭を走った。興味深いのは、経久が特別な大義名分を用意しなかったことである。ただ実力で城を取り、国を取り、従わせた。

後世の下剋上の武将たちが、家系を飾ったり将軍を担いだりして正統性を演出したのとは対照的である。時代がまだ若く、そこまで取り繕う必要がなかったのかもしれない。八十四年の生涯は、戦国という時代がかたちを整えていく過程そのものと重なっている。油売りから国主になったと語られる斎藤道三の逸話が、実は父子二代の事業だったように、経久の十一カ国も後世の誇張を含む。それでも、追放された守護代の子が元旦の奇襲で城を取り戻し、八十四歳まで山陰に君臨したという骨格は動かない。

月山富田城の七曲りを登れば、この城を数十人で奪った男の胆力が、少しだけ想像できるはずである。謀略で奪い、恩賞で繋ぎ、信仰で固める。尼子経久という武将の統治は、戦国初期の中国地方における一つの完成形であった。その勢力が三代で消えたことすら、彼が時代の先を走りすぎていた証といえるのかもしれない。

当図鑑内の関連武将

経久が築いた尼子氏を継いだのが孫の尼子晴久、その子で降伏した尼子義久である。次男の尼子国久とその子尼子誠久は新宮党を率いた。滅亡後に再興を託された尼子勝久と、それを支え続けた山中幸盛。生涯の敵であった大内義興大内義隆、そして最終的に尼子氏を滅ぼした毛利元就とその子吉川元春。あわせてご覧いただきたい。

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