つつい さだつぐ
| 地域 | 近畿・東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 筒井氏 |
| 大名家 | 筒井氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 高級具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・改易 |
筒井定次は筒井順慶の養子で、大和郡山城主から伊賀へ移された大名である。伊賀上野に城を築いて伊賀を治め、関ヶ原の戦いでは東軍に属した。慶長13年(1608)に改易され、のち豊臣方への内通を疑われて自害した。
目次
順慶の後継者
定次は永禄5年(1562)に生まれた。本姓は慈明寺で、慈明寺順国の子である。従兄にあたる筒井順慶に子がなかったため、その養子となった。天正12年(1584)に順慶が没すると遺領を継ぎ、大和国の郡山城主となった。
家督を継いだ年、定次は小牧・長久手の戦いに羽柴秀吉方として出陣した。翌天正13年には紀州攻めと四国攻めに加わったとされる。
伊賀への移封と上野城
天正13年(1585)、定次は秀吉によって大和から伊賀へ移された。大和には秀吉の弟の羽柴秀長が入った。定次の知行は伊賀一国に伊勢・山城の領地を加えた20万石とされるが、伊賀5万石とする記述もあり、石高には諸説ある。
定次は伊賀の上野に城を築いて居城とした。これが伊賀上野城の始まりである。その後も九州攻めや小田原攻めに従軍したとされる。文禄元年(1592)には長崎でヴァリニャーノから洗礼を受けたとされ、キリシタン大名の一人に数えられる。
改易と自害
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで、定次は徳川家康の東軍に属し、所領を安堵された。しかし慶長13年(1608)に改易された。家臣の中坊秀祐が、定次の失政や不行状を幕府に訴えたことがきっかけとされる。伊賀が大坂に近い要地であったことが幕府の判断に影響したとみる見方もある。
改易後、定次は鳥居忠政に預けられた。慶長20年(1615)3月5日、豊臣方に通じていた疑いをかけられ、子の順定とともに自害した。54歳であった。定次の後の伊賀には、伊予今治から藤堂高虎が入った。
ゆかりの地
- 伊賀上野城(三重県伊賀市):定次が築いた城を起源とする
- 郡山城跡(奈良県大和郡山市):順慶から継いだ居城



















