まちだ ひさます
| 地域 | 薩摩国(鹿児島県) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津家臣・家老 |
| 大名家 | 島津氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀・弓 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 重臣・外交 |
町田久倍は、薩摩の島津家に仕えた武将で、島津義久・義弘の代に家老をつとめた。官途は出羽守。伊集院の地頭をつとめ、肥後の相良氏との交渉など、島津家の九州進出を支えた重臣のひとりである。
島津一族から出た町田氏
町田氏は、島津氏の一族から分かれた家(島津氏支流)である。薩摩国伊集院の石谷村を本拠とし、鎌倉時代の島津忠時の子孫にあたる忠光が祖になったと伝わる。江戸時代を通じて何人もの家老を出した、島津家中の重い家柄である。
久倍は町田久徳の嫡子である。母は伊集院久盈の娘とされる。町田氏と伊集院氏は、ともに島津家を支える重臣の家であった。
島津家の家老として
久倍は若いころから戦場で働いた。永禄11年(1568)、肥後の相良氏と大口の菱刈氏の連合軍との戦いで手柄を立てたとされる。天正3年(1575)に琉球王国の使いが来たときには、もてなしの場で犬追物を披露したと伝わる。
天正6年(1578)には伊集院(いまの鹿児島県日置市のあたり)の地頭に任じられた。地頭は、島津家の領内で一つの地域を治める大事な役目である。久倍は義久・義弘の代に家老をつとめたとされる。豊臣政権のもとで、島津義久の娘の亀寿が京都にいたときには、これに従ったという。
相良家の家督を認める
天正9年(1581)、肥後の相良義陽が戦いで亡くなり、相良氏は島津氏に従う立場となった。翌天正10年(1582)1月、久倍は島津家の重臣として、相良家の跡継ぎに忠房がなることを認める書状と起請文を出している。
起請文は「町田出羽守久倍」の名で、相良家の本拠である八代の重臣たちにあてたものである。この文書は「相良家文書」として慶應義塾大学に伝わる。久倍が島津家と周りの家との交渉を担っていたことがわかる。
最期と子孫
久倍は慶長5年(1600)に亡くなった。8月28日に播磨の明石浦で没したとされ、関ヶ原の戦いの直前のことであった。
嫡男の忠綱は朝鮮出兵のさなかに戦死したとされ、町田家は二男の久幸が継いだという。町田家は江戸時代も薩摩藩の重臣の家として続いた。幕末から明治にかけて活躍し、東京国立博物館のもとになった博物館の初代館長となった町田久成は、久倍の子孫と伝わる。
参考にした資料
町田久倍とは
町田久倍は、薩摩の島津家に仕えた町田家の当主で、家老を務めました。
町田家
町田家は、島津家の一族から分かれた家とされ、島津家の重臣として仕えました。
島津家の家老
島津家では、家老たちが当主を支えて政治や軍事を担いました。久倍も、その一人でした。
相良家との関わり
久倍は、肥後の相良家の家督相続に関わったとされます。島津家は、周りの家への影響力を強めていました。
評価
久倍は、島津家の一族から出た町田家の当主として、家老を務め、島津家の勢力拡大を支えた人物です。
このイラストについて
このイラストは、陣と城を背に、兜をかぶった久倍を描いています。
高い兜と、落ち着いた顔つきで、島津家の家老としての重みを表しました。
夕日に照らされた陣は、島津家の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。
島津家の歴史と武将一覧を見る →

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