山中鹿介 | 山中鹿介。尼子家再興のため願わくば我に七難八苦を与えよと三月に祈り、生涯を毛利との死闘に捧げた不滅の英雄

山中鹿介

やまなか しかのすけ

地域中国
所属勢力・属性尼子再興軍
大名家尼子氏
家紋平四つ目結
主武器大太刀・三日月兜
衣装・甲冑黒塗重厚具足
武将タイプ「願わくば七難八苦を与えよ」・英雄
目次

山中幸盛とは

山中幸盛は、出雲の戦国大名であった尼子氏の家臣である。通称を鹿介といい、この名で広く知られている。主家が滅んだ後も諦めず、十年にわたって尼子再興のために戦い続けた。捕らえられては脱し、破れては再び兵を挙げる。その執念は敵からも畏怖された。三日月に向かって「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという逸話は、あまりにも有名である。ついに再興は成らず、三十代半ばで謀殺された。それでも彼の名が四百年語り継がれてきたのは、勝敗とは別の何かを人々がそこに見たからである。

尼子氏という主家

尼子氏は出雲の守護代から身を起こし、尼子経久の代に山陰山陽十一か国に号令する大勢力となった。下剋上の先駆けともいえる家である。本拠の月山富田城は、山陰随一の要害として知られた。標高およそ二百メートルの山全体を城郭とし、力攻めでは容易に落ちない構造を持つ。しかし尼子晴久の代になると、安芸から台頭した毛利元就との抗争が激化する。

晴久の急死後、家督を継いだ尼子義久は劣勢を挽回できなかった。幸盛は天文十四年(1545年)頃、尼子氏の一族に連なる山中家に生まれたとされる。生年には諸説あり、確定していない。幸盛が武将として世に出た頃、すでに尼子氏は毛利の攻勢に押し込まれつつあった。彼の生涯は、最初から劣勢との戦いであった。

鹿角の兜と一騎討ち

幸盛の兜には、大きな鹿の角を模した脇立が備わっていた。通称の鹿介は、この兜に由来するとも、幼名によるともいわれる。若き日の幸盛には、一騎討ちの逸話が伝わる。毛利方の勇士である品川大膳が名乗りを上げ、幸盛がこれに応じて討ち取ったというものである。二人はそれぞれ鹿と狼を名乗り、月山富田城下で相対したと語られる。江戸期の軍記に彩られた話だが、幸盛の武名がそれだけ高かったことの反映である。実際、幸盛は尼子家中でも屈指の武辺者として知られていた。単なる忠臣ではなく、戦場で数えきれない働きをした将であった。

月山富田城の落城

永禄五年(1562年)以降、毛利元就は出雲へ本格的に侵攻する。山陰方面の指揮を執ったのは、元就の次男である吉川元春であった。毛利軍は力攻めの失敗を経て、包囲と兵糧攻めへ方針を転換した。周辺の支城を落とし、街道を封鎖し、城内への補給を断つ。永禄八年から翌年にかけて、城内では飢えが進んだ。疑心暗鬼から重臣が誅殺されるなど、内部からも崩れていく。永禄九年(1566年)十一月、尼子義久は開城を決断した。戦国大名としての尼子氏は、ここに滅亡する。幸盛は毛利氏に降ることを拒み、城を出て流浪の身となった。二十歳をいくらか過ぎた頃である。

七難八苦の祈り

幸盛を象徴するのが、三日月に祈ったという逸話である。主家再興を志した幸盛は、夜空の三日月を仰いで「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったと伝えられる。普通、神仏には加護を願う。ところが幸盛は、あえて苦難を求めた。困難が大きいほど自らは鍛えられ、主家再興という大望に近づけるという理屈である。この逸話の初出は江戸期の書物であり、史実として確認されているわけではない。

しかし幸盛の生き方をこれほど端的に表す話は他にない。実際、彼の生涯は七難八苦そのものであった。敗北、逃亡、捕縛、脱出、そして再挙。その繰り返しが十年続く。三日月の前立を備えた兜姿で描かれることが多いのも、この逸話の影響である。

尼子再興軍の旗揚げ

永禄十二年(1569年)、幸盛は京都の東福寺に身を寄せていた尼子一族の少年を探し出した。尼子誠久の子で、後の尼子勝久である。幸盛は勝久を還俗させ、旗頭として担ぎ出した。血筋という正統性がなければ、旧臣も国人も動かない。彼はそれを的確に理解していた。同年、尼子再興軍は隠岐を経て出雲へ上陸する。旧尼子領の国人たちが次々と呼応し、瞬く間に出雲の大半を制圧した。

好機は毛利氏の側にあった。当時、毛利軍は北九州で大友氏と激戦を繰り広げており、出雲は手薄だったのである。毛利元就はやむなく九州から撤兵し、山陰へ主力を戻した。幸盛の再興軍は、結果として大友氏を救う形にもなった。一時は月山富田城を包囲するところまで迫った。しかし城は落ちず、毛利の大軍が到着すると形勢は逆転する。

布部山の敗北と脱出

元亀元年(1570年)、吉川元春の率いる毛利軍と、尼子再興軍は布部山で激突した。再興軍は敗れ、出雲における拠点を失っていく。幸盛は各地を転戦して抵抗を続けたが、次第に追い詰められた。この頃、幸盛は毛利方に捕らえられたと伝えられる。しかし監視の隙をつき、厠から抜け出して逃走したという。捕縛と脱出の逸話は複数伝わり、そのどこまでが事実かは判然としない。

ただ、幸盛が何度も窮地から生還したことは確かである。元亀二年(1571年)、再興軍は出雲から完全に追い落とされた。第一次の尼子再興は、こうして潰える。それでも幸盛は諦めなかった。彼は西へ望みを断ち、東の新興勢力に目を向ける。

織田信長を頼る

毛利氏に単独で対抗する力はもはやない。幸盛が頼ったのは、畿内を制しつつあった織田信長であった。信長にとっても、毛利領の内部を知り、しかも毛利を心底憎む集団は貴重であった。尼子再興軍は織田方に組み込まれる。天正五年(1577年)、信長は羽柴秀吉に中国方面軍を委ねた。幸盛と勝久は、この秀吉の指揮下に入る。秀吉は播磨へ進出し、上月城を攻略した。

この城は播磨・備前・美作の境に位置する要衝で、毛利領への最前線にあたる。秀吉は上月城を尼子主従に預けた。十年ぶりに、彼らは自らの城を持ったことになる。幸盛にとって、上月城は再興への足がかりであった。ここから西へ攻め上り、出雲を取り戻す。その構想は、決して非現実的ではなかった。

上月城の孤立

天正六年(1578年)、毛利氏は上月城の奪回に動いた。吉川元春と小早川隆景が率いる大軍が城を包囲する。毛利両川が揃って出陣したことは、彼らが尼子再興軍をいかに脅威と見なしていたかを示している。とりわけ元春にとって、幸盛は十年来の宿敵であった。秀吉は救援に向かったが、毛利軍の規模を前に決戦を避けた。そこへ信長から、播磨の三木城攻めを優先せよという命令が下る。

別所長治の離反によって播磨の情勢が急変しており、織田方には上月城を救う余裕がなかったのである。秀吉は撤退を決断した。この判断を伝えるとき、彼は涙を流したと伝えられる。尼子主従を見殺しにすることを、秀吉自身も痛感していた。上月城は完全に孤立した。籠城は二か月に及び、兵糧は尽きていく。

落城と謀殺

天正六年七月、尼子勝久は城兵の助命を条件に自刃した。二十六歳であった。尼子氏の血統は、ここで断たれる。幸盛は降伏し、毛利方に身柄を引き渡された。毛利輝元の待つ備中へ護送されることとなる。しかし護送の途上、備中の阿井の渡しにおいて、幸盛は毛利方の手により殺害された。享年三十四前後とされる。毛利氏が幸盛を生かしておかなかった理由は明白である。

この男を放置すれば、何度でも再興の兵を挙げる。十年の経験が、それを証明していた。幸盛の首は毛利輝元のもとへ運ばれた。輝元は首実検の際、その武勇を惜しんだと伝えられる。尼子再興の夢は、こうして完全に潰えた。主家の滅亡から実に十二年、幸盛は最後まで諦めなかったことになる。

十勇士という物語

江戸期になると、幸盛を主役とする物語が数多く作られた。そこで生まれたのが「尼子十勇士」である。秋宅庵之介、寺本生死之助、横道兵庫之介といった異名の勇士が、幸盛のもとに集って戦うという趣向である。真田十勇士と同様、これらの人物の多くは創作とみられている。ただし尼子再興軍に実在の武将が数多く従っていたことは事実である。

物語が生まれた背景には、負けた側の英雄を惜しむ心情がある。判官贔屓という言葉で語られる、日本人が好んできた型の一つといえる。明治以降は修身の教科書にも取り上げられ、忠義と不屈の象徴として子どもたちに教えられた。三日月の祈りは、その中核をなす挿話であった。

人物像

幸盛は武勇に優れ、同時に人を動かす力を持っていた。尼子勝久を探し出して担ぎ、旧臣を糾合し、織田政権と交渉する。一介の家臣にできることではない。主家が滅んだとき、多くの尼子家臣は毛利に降るか帰農した。責める話ではなく、それが当時の常識である。幸盛だけが別の道を選んだ。損得で説明のつかないこの選択が、後世の人々を惹きつけてきた。一方で、彼の戦いが出雲の民に長い戦乱をもたらした面も否めない。忠義の裏側には、常に犠牲がある。それでも幸盛が英雄視されるのは、彼が自分の信じたものに対して一度も妥協しなかったからであろう。

後世の評価とゆかりの地

近代以降、幸盛の評価は忠臣の鑑という枠を超えて広がった。挫折を重ねながら立ち上がり続けた人物として読まれるようになっている。島根県安来市の月山富田城跡には、幸盛の像が建つ。山陰随一の山城跡を登れば、彼が取り戻そうとした景色が広がる。城跡の登山口付近には山中鹿介祈月像があり、三日月に祈る姿が刻まれている。

岡山県高梁市の阿井の渡し跡には、幸盛の供養塔が建つ。護送中に命を絶たれた場所である。兵庫県佐用町の上月城跡には、尼子勝久と山中幸盛を祀る碑がある。尼子再興の夢が終わった地である。広島県三次市には、幸盛の首塚と伝わる胴塚・首塚が残る。毛利輝元が首実検を行った地とされる。

尼子再興軍という集団

尼子再興軍は、単なる浪人の寄せ集めではなかった。旧尼子家臣、出雲・伯耆の国人、そして毛利の支配に不満を持つ勢力が結集した集団である。毛利氏は征服者として山陰に入った。旧尼子領の国人にとって、新しい支配者よりも旧主のほうが与しやすい。幸盛はその不満を的確に組織した。永禄十二年の蜂起で瞬く間に出雲の大半を制圧できたのは、この潜在的な反毛利感情があったからである。武力だけでは説明がつかない。

立原久綱は幸盛の叔父にあたり、再興軍の中核として最後まで行動をともにした。上月城の落城後も生き延び、後年まで尼子の記憶を伝えたとされる。また幸盛は、寺社や商人との関係も重視した。流浪の身で兵を養うには、資金と情報の供給源が要る。彼は武辺者であると同時に、優れた組織者であった。十年にわたって断続的に兵を挙げ続けられた事実そのものが、幸盛の政治力を証明している。

毛利にとっての山中幸盛

毛利氏の側から見れば、幸盛は最も厄介な敵であった。野戦で破っても、城を落としても、しばらくすると別の場所で兵を挙げる。討ち取るまで終わらない相手である。吉川元春が山陰に釘付けにされ続けたのも、幸盛の存在が大きい。毛利氏が織田との対決に集中しきれなかった一因でもあった。上月城に毛利両川が揃って出陣したのは、この機に幸盛を確実に始末するためであった。

単なる城一つの争奪ではなかったのである。護送中の謀殺という結末も、同じ論理から出ている。捕虜として生かせば必ず逃げ、また兵を挙げる。毛利氏は十年かけてそれを学んでいた。敵にここまで警戒された家臣は、戦国期を通じても数えるほどしかいない。

幸盛の子と鴻池家の伝説

幸盛には新六幸元という子がいたと伝えられる。父の死後、母方に引き取られて摂津に落ち延びたという。この新六が後に商人となり、清酒の醸造を手がけて成功した。それが江戸期に豪商として知られた鴻池家の祖である、という伝承がある。史料的な裏づけは乏しく、家系を飾るために後から作られた話とみる説が有力である。とはいえ、武将の家が滅び、その子が商人として身を立てるという展開は、戦国から近世への転換をよく表している。伝説の真偽はともかく、幸盛の名が江戸期にそれだけ価値を持っていたことは確かである。系譜に繋げたいと思わせる名前だったのである。

敗者が残したもの

山中幸盛は、目的を一つも達成できなかった武将である。主家は再興されず、出雲は取り戻せず、自身は謀殺された。それでも彼の名は、成功した多くの武将よりも強く記憶されている。理由の一つは、その執念の異常さであろう。十二年、七度とも十度ともいわれる挙兵。普通の人間なら三度目で諦める。もう一つは、彼の戦いが純粋だったことである。

領地を広げるためでも、天下を望んだのでもない。滅んだ家を取り戻す。ただそれだけであった。七難八苦を願うという祈りは、常識で考えれば理解しがたい。だが目的が一つしかない人間にとっては、苦難すら手段になる。勝った者だけが歴史に残るわけではない。山中鹿介という名前は、そのことを四百年にわたって証明し続けている。

尼子氏三代の興亡

幸盛の生涯を理解するには、彼が守ろうとした尼子氏そのものを知る必要がある。初代の尼子経久は、京極氏の守護代から身を起こし、主家を実力で押しのけて出雲を掌握した。謀略を得意とし、下剋上の代表格として名高い。二代の尼子晴久は経久の孫にあたる。山陰山陽に版図を広げ、一時は毛利元就の居城である吉田郡山城まで攻め寄せた。尼子氏の最盛期である。しかし晴久は永禄三年(1560年)に急死する。

四十七歳。この早すぎる死が、尼子氏の運命を決めた。三代の尼子義久は、毛利元就の攻勢を支えきれなかった。開城後は毛利氏のもとで生き延び、戦国大名としての尼子氏は幕を閉じる。幸盛が取り戻そうとしたのは、この経久・晴久の時代の尼子氏であった。彼にとってそれは、まだ十分に手の届く過去だったのである。

出雲という土地

出雲は日本海に面し、中国山地に隔てられた土地である。古代から独自の文化圏を形づくり、出雲大社を中心とする信仰の地でもあった。経済的な価値も高い。たたら製鉄によって生み出される鉄は武器の原料であり、山陰の砂鉄は当時の一大資源であった。毛利氏が執拗に出雲を求め、尼子旧臣が執拗に取り戻そうとしたのは、この地が単なる辺境ではなかったからである。幸盛が旗を挙げるたびに国人が呼応したのも、出雲が「毛利のもの」になりきっていなかったことを示している。

土地の記憶は、支配者が変わってもすぐには消えない。幸盛の十年は、その空白を突き続けた十年でもあった。現在の安来市や松江市を歩けば、月山富田城跡をはじめ尼子ゆかりの地が点在している。幸盛が何を取り戻そうとしたのかは、その風景のなかに残っている。

当図鑑内の関連武将

幸盛が仕えた尼子氏の祖が尼子経久、全盛期を築いたのが尼子晴久、そして幸盛が旗頭として担いだのが尼子勝久である。宿敵となった毛利方には毛利元就、山陰で十年争い続けた吉川元春、上月城を包囲した小早川隆景、首実検を行った毛利輝元がいる。頼った織田信長と、涙とともに見捨てた豊臣秀吉。あわせてご覧いただきたい。

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