柳川調興 | 対馬宗家の筆頭家老。宗義智亡き後、対馬藩の権力を握ろうとして国書改ざん問題(柳川件)を引き起こし幕府に処罰された

やながわ しげおき

地域九州
所属勢力・属性宗家臣
大名家宗
家紋丸に違い角
主武器行政書状・太刀
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ暗躍・柳川件

対馬宗家の筆頭家老。宗義智亡き後、対馬藩の権力を握ろうとして国書改ざん問題(柳川件)を引き起こし幕府に処罰された。

目次

対馬宗家の家老

調興は、対馬の宗家に仕えた家老です。

柳川家

柳川家は、宗家の重臣の家で、調興の祖父の柳川調信は、豊臣秀吉の朝鮮出兵の前後に、宗家の外交の中心として活躍しました。

対馬と朝鮮

対馬は、日本と朝鮮の間にある島で、宗家は朝鮮との外交と貿易を担っていました。

朝鮮出兵の後

秀吉の朝鮮出兵によって、日本と朝鮮の国交は断絶しました。宗家は、国交の回復に力を尽くしました。

国書の改ざん

国交の回復の過程で、宗家は徳川家と朝鮮の間でやりとりされる国書を、双方に受け入れられるように書き換えていたとされます。

幕府とのつながり

調興は、若いころから江戸で暮らし、幕府の要人とも親しい関係を持っていました。

主君との対立

調興は、主君の宗義成と対立するようになりました。

幕府への訴え

調興は、宗家が国書を改ざんしていたことを幕府に訴えました。

柳川一件

この事件は「柳川一件」と呼ばれ、1635年に三代将軍徳川家光のもとで裁きが行われました。

裁きの結果

裁きの結果、主君の義成は罪を問われず、調興が津軽へ流されることになりました。

幕府の判断

幕府は、朝鮮との外交を担う宗家の役割を重んじ、宗家を残す判断をしたと考えられています。

以酊庵輪番制

この事件の後、幕府は京都の五山の僧を対馬に送り、外交文書の作成を監督させる仕組みを整えました。

津軽での晩年

調興は、流された津軽の地で晩年を過ごしました。

外交の裏側

柳川一件は、江戸時代のはじめの日朝外交の裏側を明らかにした出来事として知られています。

宗義成

宗義成は、宗義智の子で、対馬藩の2代目の藩主です。柳川一件の裁きの後も、対馬藩主として朝鮮との外交を担い続けました。

朝鮮通信使

柳川一件の後、朝鮮からの使節「朝鮮通信使」は、江戸時代を通じてたびたび日本を訪れ、両国の交流が続きました。

江戸の調興

調興は、若いころに徳川家に仕えた経験があり、幕府の中に知り合いが多かったとされます。そのことが、主君との対立にも影響したと考えられています。

対馬藩

宗家が治めた対馬藩は、米のとれる土地が少なく、朝鮮との貿易が藩の財政を支えていました。

調興の評価

調興は、対馬宗家の家老として幕府とも深くつながりながら、主君と対立して国書改ざんを訴え、自らが流罪となった人物です。その事件は、江戸時代の日朝外交の仕組みを変えるきっかけとなりました。

このイラストについて

甲冑姿の武将が書状を手にし、ろうそくの灯る部屋の窓から荒れた海を背にした姿です。

書状と荒れた海は、日本と朝鮮の間の海に浮かぶ対馬と、国書をめぐる柳川一件をイメージしています。ろうそくの灯る部屋の場面は、外交の裏側で起きた事件の緊張感を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

宗家

対馬を治めた家。耕地がとても少ない島のため、朝鮮との交易が家の経済を支えた。

宗家の歴史と武将一覧を見る →

主家

  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次