きら よしさだ
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 吉良氏(徳川家臣) |
| 大名家 | 吉良氏 |
| 家紋 | 足利二つ引 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 名門を立て直した当主 |
吉良義定(きら よしさだ)は、戦国時代に領地を失った三河吉良氏を、徳川家康のもとで旗本として再興した当主である。永禄7年(1564年)に生まれ、寛永4年(1627年)に64歳で没した。子の義弥は江戸幕府の儀式を担う「高家」となり、その家から、のちに忠臣蔵で知られる吉良上野介義央が出る。
- 永禄7年(1564年)、吉良義安の子として生まれる。叔父の吉良義昭は家康と戦って敗れ、三河を去った
- 家康に仕え、戦国期に領地を失った吉良家を3000石の旗本として再興した。慶長5年(1600年)、父の菩提を弔うため華蔵寺を建てた
- 子の義弥が高家となり、義定 → 義弥 → 義冬 → 義央(上野介)と続く高家吉良家の祖となった。寛永4年(1627年)没
家を失った名門の跡取り
義定の父・義安は、東条吉良家に養子に入った人物である。今川氏に捕らえられて駿府に留め置かれた時期があり、その時期や晩年については資料によって説明が異なる。叔父の吉良義昭が家康と戦って三河を去ったあと、義安は家康から東条・西条をあわせて治めることを許された。
義定はその義安の子として、永禄7年(1564年)に生まれた。母は松平清康(家康の祖父)の娘とする系図があり、それに従えば義定は家康の従兄弟にあたる。ただし、この点は辞典や地元の資料では確かめられていない。妻は今川氏真の娘とされる。
家康のもとで吉良家を再興
義定は家康に仕え、吉良家を3000石の旗本として立て直した。西尾市は、戦国期に領地を失った吉良氏を義定が再興したと紹介している。家康に仕えた時期がいつかは、はっきりしない。
慶長5年(1600年)、義定は父・義安の菩提を弔うため、吉良荘の岡山(西尾市吉良町)に華蔵寺を建てた。華蔵寺は以後、吉良家の菩提寺となる。
子・義弥が「高家」に
同じ慶長5年(1600年)、子の義弥は本領である三河国幡豆郡の吉良荘のうちに3000石を与えられた。慶長13年(1608年)には高家となり、従五位下・侍従に任じられている。
高家とは、朝廷への使いや幕府の儀式・典礼を取り仕切る役である。古くからの名家の出身者が選ばれ、石高は大名に及ばなくても、官位は大名並みに高かった。足利一門の名門という吉良家の家柄が、ここで生かされたのである。
上野介義央へつながる家
義定の家は、義定 → 義弥 → 義冬 → 義央と続いた。4代目の義央(1641〜1703年)が、高家の筆頭格である高家肝煎を務め、元禄14年(1701年)の江戸城・松の廊下の刃傷事件と、翌年末の赤穂浪士の討ち入りで知られる吉良上野介である。義定が立て直した家は、こうして江戸時代の歴史に大きな名を残すことになった(「吉良家はなぜ江戸時代も生き残ったのか」参照)。
義定は寛永4年(1627年)9月15日に没した。華蔵寺の吉良家墓所には、義定・義弥・義冬らの宝篋印塔が並んでいる。
吉良義定をめぐる人物
ゆかりの地
- 華蔵寺(愛知県西尾市吉良町岡山):義定が慶長5年(1600年)に建てた吉良家の菩提寺。吉良家墓所は市の史跡で、毎年12月14日に法要が行われる。義央が自ら彩色したと伝わる木像(県指定文化財)もある
- 東条城跡(古城公園)(西尾市吉良町駮馬):吉良氏が拠った城跡
- 黄金堤(西尾市):義央が領民とともに一夜で築いたと伝わる堤。地元では義央は善政を敷いた名君として親しまれている
この人物をもっと知る本
- 【一般書】谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー):将軍家に次ぐ家格とされた吉良氏を、三河吉良・武蔵吉良の両方から最新研究でたどる入門書
- 【新書】岳真也『吉良上野介を弁護する』(文春新書):義定の曾孫・義央を、地元での評価も含めて見直す一冊
- 【地元の本】西尾市『吉良の人物史』:旧吉良町の刊行物。西尾市教育委員会文化財課で頒布している




















