ますだ ふじかね
| 地域 | 石見国(島根県益田市) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 石見の国人領主、大内方のち毛利方 |
| 大名家 | 益田氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | ― |
| 衣装・甲冑 | ― |
| 武将タイプ | 乱世を生き抜いた国人領主 |
益田藤兼は、石見国益田(島根県益田市)を本拠とした益田氏の19代当主である。はじめ大内氏の重臣・陶晴賢と結んで勢力を広げたが、晴賢が厳島の戦いで敗れると、弘治3年(1557)に毛利氏に降った。子の元祥の代に益田氏は長州藩の家老の家となり、幕末まで続いた。
石見の名門・益田氏
益田氏の始まりは、平安時代後期の11世紀ごろにさかのぼる。藤原国兼が石見国の国司として、今の浜田市に赴任したのが起こりとされる。
その後、4代の兼高が本拠を益田に移し、益田氏を名のった。益田氏は七尾城を詰めの城とし、ふもとの三宅御土居を館として、石見西部に大きな力をもった。
家督相続と陶晴賢
藤兼は享禄2年(1529)に生まれた。天文15年(1546)、父の尹兼から正式に家督を継いだ。
当時の石見は、周防の大内氏の強い影響下にあった。藤兼は大内氏の重臣・陶晴賢が主君にそむいた下剋上に協力し、勢力を広げたとされる。また、隣の津和野の吉見氏とは対立していた。弘治2年(1556)、藤兼は七尾城を修築して守りを固めたという。
毛利氏への服属
弘治元年(1555)、陶晴賢は厳島の戦いで毛利元就に敗れて亡くなった。毛利氏の力がのびてくると、藤兼は三隅の高城にこもって守りを固めたとされる。
しかし弘治3年(1557)、大内義長が滅んだのちに、藤兼は吉川元春を頼って毛利氏に降った。永禄11年(1568)には、子の次郎(のちの元祥、当時11歳)を連れて毛利氏の吉田郡山城へ出向いている。これにより益田氏は毛利氏の家臣として家を保つ道を選んだ。
大内氏が滅び、毛利氏が中国地方の大大名になっていくなかで、石見の国人たちはどちらにつくかを迫られた。藤兼の判断は、名門益田氏を次の時代へつなぐ大きな分かれ道であった。
晩年と益田氏のその後
藤兼は天正9年(1581)に出家し、全鼎と号した。晩年は三隅の龍雲寺に住み、慶長元年(1596)に亡くなった。
跡を継いだ20代の元祥は、関ヶ原の戦いのあと毛利氏が周防・長門の2国に減らされると、先祖代々の益田の地を離れた。元祥は長門国須佐に移り、それ以後、益田氏は代々長州藩(萩藩)の家老を務めた。益田氏は江戸時代を通じて家を保ち、幕末まで続いたのである。七尾城跡と三宅御土居跡は、今「益田氏城館跡」として国の史跡になっている。
ゆかりの地
- 七尾城跡(島根県益田市七尾町):益田氏の本城。藤兼が修築した山城
- 三宅御土居跡(島根県益田市三宅町):益田氏の居館跡。七尾城とともに国史跡
参考にした資料
益田藤兼とは
益田藤兼は、石見の名門・益田氏の当主です。
陶晴賢との関係
藤兼は、陶晴賢と深い関係にあり、晴賢の大内家の支配を支えました。
毛利家への服属
厳島の戦いで晴賢が敗れたのち、藤兼は毛利元就に降りました。
益田家の文化
益田氏は、雪舟ゆかりの庭園を持つ寺を保護するなど、文化にも力を入れた家でした。
評価
藤兼は、陶晴賢から毛利家へと主家を変えながら、石見の名門・益田氏を守った当主です。益田家は、のちに長州藩の家老の家として続きました。
このイラストについて
このイラストは、山と城を背に立つ年配の藤兼を描いています。
白髪と落ち着いた表情で、名門の当主としての風格を表しました。
霧の立つ山々と城は、益田氏が治めた石見の景色をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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