がんしょうじ しょうい
| 地域 | 東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 一向一揆・長島 |
| 大名家 | 一向一揆 |
| 家紋 | 丸に三ツ柏 |
| 主武器 | 数珠・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 高級僧衣 |
| 武将タイプ | カリスマ・宗教 |
伊勢長島一向一揆の最高指導者。織田信長を二度にわたり撃退し信長の弟たちを討ち取った。
願証寺
願証寺は、伊勢長島にあった浄土真宗の寺で、本願寺の一族が住持を務めました。尾張・伊勢・美濃の門徒をまとめる大きな拠点でした。
証意という人物
証意は、願証寺の住持として長島の門徒を率いた人物とされます。生没年や、長島の戦いのどの時期まで指導したかについては、はっきりしない点があります。
本願寺の一族
願証寺の住持は、本願寺の門主の一族から迎えられました。そのため、願証寺は本願寺の意向を伝える大事な寺でもありました。
輪中の土地
長島は、木曽三川の河口にできた中州を堤で囲んだ「輪中」の集まりでした。水と堤に守られた土地は、攻める側にとって難しい戦場でした。
小木江城の戦い
元亀元年(1570年)、長島の一揆勢は尾張の小木江城を攻め、信長の弟・織田信興を自害に追い込みました。
信長の撃退
元亀2年(1571年)と天正元年(1573年)、信長は長島を攻めましたが、いずれも大きな成果を上げられずに退きました。
信長の一族の犠牲
長島の戦いでは、信興のほかにも、信長の兄・信広や弟・秀成など、織田家の一族が命を落としました。
天正2年の総攻撃
天正2年(1574年)、信長は陸と海から大軍で長島を囲み、兵糧攻めにしました。
長島の終わり
籠城した門徒たちは飢えに苦しみ、最後には降伏しようとしましたが、多くの人々が命を落としたと伝えられます。
願証寺の再興
願証寺は、長島の戦いで失われましたが、のちに再興されました。今も桑名市長島町にあります。
木曽三川
長島を囲む木曽川・長良川・揖斐川は、昔から洪水の多い川でした。江戸時代の宝暦治水など、川を分ける大きな工事が何度も行われました。
門徒の結びつき
一向一揆の門徒たちは、念仏の教えのもとで固く結びつき、身分をこえて集まりました。その結びつきが、大名をも恐れさせる力になりました。
長島の戦いの記録
長島の戦いのようすは、『信長公記』などに記されています。ただし、一揆の側の人物についての記録は少なく、くわしいことがわからない点も多くあります。
伊勢と尾張の門徒
長島の門徒は、伊勢だけでなく、尾張や美濃の村々からも集まっていたとされます。
なばなの里
長島の一帯は、今では温泉や遊園地、花の名所などがある観光地として知られています。
評価
証意は、願証寺の住持として長島の門徒をまとめ、信長と長く戦った一向一揆の指導者として伝えられています。
このイラストについて
このイラストは、燃える寺と城を背に、数珠と巻物を手にした証意を描いています。
剃髪した頭と法衣の下にのぞく甲冑で、寺の住持でありながら門徒を率いて戦った指導者の姿を表しました。
赤く染まった空と炎は、長島の戦いの激しさをイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
浄土真宗本願寺派の門徒たちが、武士や大名の支配に対抗して起こした一揆。加賀では1488年に守護の富樫政親を倒し、およそ100年にわたって門徒の合議による支配が続いて「百姓の持ちたる国」と呼ばれた。
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