ほんじょう つねみつ
| 地域 | 中国(石見・出雲) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 尼子氏→大内氏→尼子氏→毛利氏 |
| 大名家 | 本城氏(石見高橋氏の庶流) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 猛将・城将 |
本城常光は、尼子氏に仕えて石見銀山を守る山吹城をあずかった武将である。毛利氏の攻撃を退けたが、永禄5年(1562)に毛利方へ降った。しかし同じ年のうちに、一族とともに毛利氏の陣で殺された。
石見の高橋氏の一族
本城氏は、石見の有力な国衆である高橋氏の分家にあたる。石見国邑智郡出羽(今の島根県邑南町あたり)の本城という土地を名字の地とした。高橋氏はのちに毛利氏に滅ぼされている。
常光の生年はわかっていない。通称は越中守である。出雲の須佐(今の出雲市)にある高屋倉城を居城としていたという。
尼子と大内の間で
常光は出雲の尼子晴久・義久の2代に仕えた。天文9年(1540)、尼子氏が安芸の毛利元就の郡山城を攻めたとき、常光も加わった。
この戦いで尼子軍が敗れると、常光は周防の大内義隆に従った。天文11年(1542)、大内軍が出雲へ攻め込むと、常光もこれに加わった。しかし翌天文12年(1543)4月の末、大内軍を離れて尼子氏の本拠の月山富田城に入り、再び尼子方に戻った。
石見銀山と山吹城
石見銀山は戦国時代、日本有数の銀の産地であった。大内氏・尼子氏・毛利氏はこの銀山をめぐって激しく争った。その守りの中心が、標高414メートルの要害山の頂上にある山吹城である。
常光は永禄元年(1558)ごろ毛利勢を追い払って銀山を取り、山吹城を守ったという。城には常光のほか、尼子方の番衆(交代で城を守る兵)も置かれていた。毛利氏は銀山を取り戻そうとくり返し攻めたが、常光はこれを退けたと伝わる。
毛利への降伏と最期
やがて尼子氏の力がおとろえると、永禄5年(1562)6月ごろ、常光は毛利方に降った。出雲で領地を与えるという約束が条件だったという。こうして毛利氏は石見銀山を取り戻した。
ところが同じ年の11月、常光は出雲の毛利の陣で殺され、子どもたちも命を奪われた。殺された場所は、出雲の宍道とも大原郡の幡屋ともいわれる。降伏からわずか半年たらずの最期であった。常光が守った山吹城の跡は今も大田市大森町に残り、戦国の武将たちが石見銀山を奪い合った表舞台として知られている。
ゆかりの地
- 山吹城跡(島根県大田市大森町):常光が守った石見銀山の山城。世界遺産「石見銀山遺跡」の一部
参考にした資料
本城常光とは
本城常光は、石見の高橋氏の一族で、山吹城を守った武将です。
石見銀山
石見銀山は、戦国時代に大量の銀を生み出した鉱山です。大内家・尼子家・毛利家が、その支配をめぐって争いました。
山吹城
山吹城は、石見銀山を守る山城でした。この城を押さえることが、銀山を手にすることにつながりました。
毛利家への降伏と最期
常光は、のちに毛利家に降りましたが、まもなく元就によって討たれたと伝えられます。
評価
常光は、石見銀山を守る城の主として、大きな勢力の争いの中心に立った武将です。その最期は、銀山をめぐる争いの激しさを物語っています。
このイラストについて
このイラストは、山の上の城を背に立つ常光を描いています。
鋭い目つきと使い込まれた甲冑で、銀山を守った武将の気迫を表しました。
山の上の城は、石見銀山を守った山吹城をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
出雲の守護・京極氏の守護代だった家。尼子経久が月山富田城を拠点に主家から自立し、戦国大名へと成長した。孫の晴久の代には山陰・山陽の八か国の守護職を得て、中国地方で最大級の勢力となった。
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