みよし じっきゅう
| 地域 | 四国・近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 三好家 |
| 大名家 | 三好家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 兄を支えた猛将・茶人 |
三好実休は、三好長慶の弟で、本名を三好義賢(之虎)という。阿波(徳島県)を本拠に兄の畿内支配を支えた。茶人としても名高かったが、永禄5年(1562)に畠山軍との戦いで討ち死にした。
三好元長の次男
実休は大永6年(1526)に生まれた。父は三好元長で、実休はその次男である。兄は三好長慶、弟には安宅冬康や十河一存がいた。
名は義賢といい、之虎、之康などとも名のった。実休は出家してからの号である。
三好氏は阿波の守護・細川氏に仕えた家であった。父の元長は主家の内紛に巻きこまれて命を落としたが、長慶の代に一族は大きく力をのばした。
阿波の実権をにぎる
兄の長慶が畿内で戦うあいだ、実休は阿波で一族の本拠を守った。実休は阿波守護・細川持隆の重臣であった。
天文22年(1553)、実休は主君の持隆を殺し、その子の細川真之を守護に立てて、阿波の実権をにぎった。こうして三好氏は、名目上の主君を立てながら、実際には自分たちで国を動かすようになった。家臣が主君をしのいで力をもつ、戦国時代らしいできごとである。
兄を助けて畿内へ
実休は阿波の兵をひきいて、兄の畿内平定を助けた。永禄3年(1560)には河内(大阪府東部)の畠山高政を攻め、高屋城に入った。
しかし永禄5年(1562)、畠山軍が反撃に出た。3月5日、実休はこの戦いで討ち死にした。37歳であった。前年には弟の十河一存も亡くなっており、三好家の勢いはこのあと弱まっていった。兄の長慶は、息子の義興や、実休・一存といった頼りになる弟たちを次々に失い、力を落としていったのである。
茶人として、そして子どもたち
実休は茶人としても知られ、名物の茶道具を多く持っていたと伝わる。戦にあけくれる一方で、堺の茶の湯の文化とも深くかかわった人物であった。
実休の子のうち、次男の存保は叔父・十河一存の家をついだ。阿波の三好家は嫡男の長治がついだが、のちに家中の争いが起こり、天正5年(1577)に滅んだとされる。存保も長宗我部元親に押されて阿波を失い、三好氏の四国での支配は終わった。
ゆかりの地
- 勝瑞城館跡(徳島県板野郡藍住町):阿波三好氏の本拠。国の史跡
- 高屋城跡(大阪府羽曳野市):実休が畠山氏を追って入った河内の城
参考にした資料
三好実休とは
三好実休は、三好元長の次男で、三好長慶の弟です。はじめ之虎と名乗り、出家して実休と号しました。
兄弟の連携
長慶の弟には、実休のほか、安宅冬康や十河一存がいました。兄弟は、それぞれの地域を任され、三好家の勢力を支えました。
細川持隆の殺害
天文22年(1553年)、実休は阿波の守護・細川持隆を討ち、阿波の実権を握りました。
久米田の戦い
永禄5年(1562年)、実休は和泉の久米田で畠山高政の軍と戦い、討死しました。
評価
実休は、阿波を足場に兄・長慶を支え、茶の湯にも通じた武将です。その死は、三好家の衰えの始まりの一つとなりました。
このイラストについて
このイラストは、山と城を背に立つ実休を描いています。
落ち着いた表情と、紺色の甲冑で、武将でありながら茶の湯を愛した教養人の姿を表しました。
緑の山々は、実休が治めた阿波の景色をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
阿波の守護・細川氏の家臣から身を起こした家。三好長慶は主君の細川晴元と争い、1549年の江口の戦いで勝利して畿内の実権を握った。将軍や管領を京都から遠ざけて政治を動かし、近年では「最初の天下人」とする見方もある。
三好家の歴史と武将一覧を見る →






























