こでら まさもと
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 播磨小寺氏 |
| 大名家 | 播磨小寺氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 保身・優柔不断 |
小寺政職は播磨御着城主で、黒田官兵衛(孝高)の主君。赤松氏の被官だった小寺氏の当主として、官兵衛を重く用いた。一度は織田信長に従ったが、荒木村重の謀反に合わせて毛利方に付いた。御着城の落城後は備後の鞆へ逃れた。
御着城主の小寺氏
小寺政職は享禄2年(1529年)に生まれた。小寺氏は播磨守護・赤松氏の被官(家臣)で、祖父の代までは姫路城を本拠としていた。政職は天文14年(1545年)に父から御着城(姫路市)を譲られ、以後ここを拠点とした。
御着城は天川東岸の河岸段丘の上にある城である。姫路城は小寺氏の家臣である黒田氏が守り、黒田重隆・職隆父子が永禄4年(1561年)に改修したとされる。
官兵衛を重く用いる
政職は、家臣・黒田職隆の子である小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)の能力を認めた。自分の従姪(いとこの娘)を官兵衛に嫁がせるなど、厚く遇した。官兵衛の母と妻は、ともに政職の養女として黒田家に嫁いだとされる。官兵衛が小寺姓を名乗ったのも、この主従関係による。
織田と毛利の間で
播磨は、東から勢力を広げる織田信長と、西の毛利氏の間にあった。天正3年(1575年)、政職は赤松氏・別所氏とともに信長のもとへ挨拶に出向き、織田方に付いた。
しかし天正6年(1578年)、摂津有岡城の荒木村重が信長に背くと、政職もこれに合わせて信長から離れ、毛利方に通じた。有岡城に説得に赴いた官兵衛は捕らえられ、長く幽閉された。
御着城の落城とその後
天正8年(1580年)、羽柴秀吉の播磨攻めで御着城も落城した。政職は長男の氏職とともに英賀を経て、毛利領の備後国鞆の浦へ逃れた。鞆にいた足利義昭に仕えたとされる。没年は天正10年(1582年)とする説がある。同じ天正8年、黒田孝高は姫路城を秀吉に献じた。秀吉はここを播磨支配の拠点とした。
氏職はのちに黒田家に仕え、子孫は福岡藩士として続いた。
ゆかりの地
- 御着城跡(姫路市):小寺氏の居城。天正年間に羽柴秀吉の播磨侵攻で落城した




















