大政所 | 豊臣秀吉・秀長の母「なか」。関白の母として大政所と呼ばれ、家康を上洛させるため人質として岡崎へ

大政所のイラスト(イメージ)

おおまんどころ

地域東海(尾張)
所属勢力・属性豊臣氏(秀吉・秀長の母)
大名家豊臣家
家紋五七桐(豊臣家)
主武器―
衣装・甲冑小袖・打掛、尼頭巾
武将タイプ天下人の母

大政所(おおまんどころ)は、豊臣秀吉と豊臣秀長の母である。名は「なか」(仲)と伝わる。永正10年(1513年)ごろ尾張国に生まれ、文禄元年(1592年)に京の聚楽第で亡くなった。秀吉が関白になったことで、関白の母を指す「大政所」の名で呼ばれるようになった。

3行でわかる大政所
  • 尾張の農家に生まれ、秀吉・秀長・とも(日秀)・朝日の母となった
  • 秀吉が関白になると「大政所」と呼ばれ、聚楽第や大坂城で暮らした
  • 家康を上洛させるため、人質として三河の岡崎へ送られたことがある
目次

尾張の母

なかは尾張国愛知郡の生まれとされる。最初の夫・木下弥右衛門とのあいだに娘のとも(のちの日秀)と息子の秀吉をもうけた。弥右衛門が亡くなったあと再婚し、秀長と朝日が生まれたと伝わるが、子どもたちの父親が誰だったのかについては、いくつかの説がある。

農民の家で子どもたちを育てた母は、のちに天下人の母となる。息子たちが出世したあとも、なかは子どもたちから深く大切にされた。

「大政所」となる

天正13年(1585年)、秀吉が関白になると、なかは朝廷から従一位を与えられ、関白の母を意味する「大政所」と呼ばれるようになった。大坂城や、のちに秀吉が京に建てた聚楽第で暮らしている。

秀吉は母の病気の回復を願って、各地の寺社に祈りをささげさせた。母を思う秀吉の手紙も残っており、天下人となっても母を大切にしたようすがうかがえる。

人質として岡崎へ

天正14年(1586年)、秀吉は徳川家康を臣従させるため、妹の朝日を家康の正室として嫁がせた。それでも家康が上洛しないため、秀吉は母のなかまで三河の岡崎に送った。朝日に会いに行くという名目だったが、実際には家康が京に来ているあいだの人質だった。

家康はこれを受けて上洛し、大坂城で秀吉に臣従した。大政所は無事に戻ったが、留守を預かった本多重次が、大政所の宿所のまわりに薪を積み、家康に何かあれば火をつける構えを見せたという話も伝わっている。

最期

文禄元年(1592年)、秀吉が朝鮮出兵のため肥前の名護屋城にいたとき、大政所は聚楽第で重い病にかかった。知らせを受けた秀吉は急いで京へ戻ったが、間に合わなかった。秀吉は母の死を深く悲しみ、そのショックで倒れたとも伝わる。

法名は天瑞院。京都の大徳寺には、秀吉が母のために建てた天瑞寺があった(現在は廃寺)。

大政所をめぐる人物

  • 子:豊臣秀吉/豊臣秀長/とも(日秀)/朝日姫
  • 孫:豊臣秀次/豊臣秀勝/豊臣秀保
  • 嫁:北政所(ねね)
  • 人質として会った相手:徳川家康

ゆかりの地

  • 中村公園・豊国神社(名古屋市中村区):秀吉の生誕地とされる地
  • 大徳寺(京都市北区):秀吉が母のために建てた天瑞寺があった寺
  • 岡崎城(愛知県岡崎市):人質として送られた城
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