山中俊房 | 甲賀音羽城主。甲賀郡中惣(自治組織)の最高幹部として、六角氏や織田信長との対立・交渉を主導

山中俊房

やまなか としふさ

地域近畿
所属勢力・属性甲賀衆・六角系
大名家甲賀衆
家紋丸に三ツ割り丸た
主武器太刀・忍び具
衣装・甲冑重臣具足
武将タイプ「甲賀の長老」・自治

甲賀音羽城主。甲賀郡中惣(自治組織)の最高幹部として、六角氏や織田信長との対立・交渉を主導。

目次

甲賀の武将

俊房は、近江の甲賀の音羽城を本拠とした武将です。

甲賀という土地

甲賀は、現在の滋賀県南部にあたる地域です。山に囲まれた土地で、多くの小さな領主たちが暮らしていました。

甲賀衆

甲賀の小さな領主たちは「甲賀衆」と呼ばれ、強い結束で知られていました。

甲賀郡中惣

戦国時代の甲賀では、甲賀衆が「甲賀郡中惣」と呼ばれる合議による自治の組織をつくっていました。

合議による自治

甲賀郡中惣では、強い大名を上に置かず、甲賀衆が話し合って物事を決めていました。

最高幹部

俊房は、甲賀郡中惣の最高幹部の一人として、甲賀衆をまとめる立場にありました。

山中家

山中家は、甲賀の有力な家の一つで、甲賀衆の中でも重きをなしていました。

六角家との関係

甲賀は、近江の守護・六角家と深い関係にありました。甲賀衆は、六角家の戦いにも加わりました。

織田信長の近江進出

1568年、織田信長が近江に攻め込み、六角家は甲賀に逃れました。甲賀は、六角家と信長の争いの舞台となりました。

交渉の担い手

俊房は、六角家や信長との間で、甲賀衆の立場を守るための交渉を主導したとされます。

信長に従う

やがて甲賀衆は、信長に従うことになりました。

甲賀の忍び

甲賀は、のちに「甲賀忍者」の里として知られるようになりました。甲賀衆の中には、情報集めや奇襲に長けた者たちがいたとされます。

甲賀のその後

豊臣秀吉の時代には、甲賀衆の多くが所領を失い、その一部は徳川家に仕えることになりました。

甲賀の里

甲賀には、今も忍者にまつわる資料館や屋敷が残されています。

伊賀との違い

隣の伊賀でも、多くの土豪が自分たちで土地を治めていました。伊賀は信長の伊賀攻めで大きな被害を受けましたが、甲賀は信長に従う道を選びました。

音羽城

俊房が本拠とした音羽城は、甲賀の中の小さな城の一つでした。甲賀には、こうした小さな城が数多く築かれていました。

家康の伊賀越え

1582年の本能寺の変の後、徳川家康は伊賀・甲賀の山中を越えて三河に逃れました。この「伊賀越え」では、甲賀衆も家康を助けたとされます。

甲賀五十三家

甲賀には、のちに「甲賀五十三家」と呼ばれる多くの土豪の家がありました。山中家は、その中でも有力な家の一つでした。

郡中惣の掟

甲賀郡中惣では、争いを話し合いで解決するための掟が定められ、甲賀衆はそれに従って結束していました。

甲賀衆と秀吉

豊臣秀吉の時代、甲賀衆の多くは、命じられた工事の遅れを理由に所領を取り上げられたと伝えられます。

俊房の評価

俊房は、甲賀郡中惣の最高幹部として、六角家や信長との間で甲賀衆の自治を守ろうとした人物です。その歩みは、戦国時代の甲賀の独自の姿を今に伝えています。

このイラストについて

白髪の老人が甲冑姿で、森の中に集まる人々を背にした姿です。

森の中に集まる人々は、甲賀衆が話し合いによって物事を決めた甲賀郡中惣をイメージしています。年長の落ち着いた姿は、その最高幹部として甲賀衆をまとめた俊房を表しています。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

甲賀衆

近江の甲賀郡の土豪たちの集団。伊賀と同じく、地侍たちの合議によって地域を治めた(甲賀郡中惣)。のちに「甲賀忍者」として語られるようになった。

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