べっしょ ながはる
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 播磨別所氏 |
| 大名家 | 播磨別所氏 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 華美具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・播磨の雄 |
別所長治は播磨三木城主である。天正6年(1578年)に織田信長から離れて毛利氏と結び、羽柴秀吉の攻撃に2年近く耐えた。この戦いは「三木の干殺し」と呼ばれる。兵糧が尽きた天正8年(1580年)1月、城兵の助命と引き換えに自害した。
播磨の有力国人・別所家
別所長治は播磨国東部を治めた別所家の当主で、三木城(現在の兵庫県三木市)を居城とした。生年は永禄元年(1558年)とする説があるが、はっきりしない。
別所家は織田信長に従っていた。信長が中国地方の毛利氏攻めを始めると、播磨はその最前線となった。
長治は若くして家督を継ぎ、叔父の別所吉親(賀相)や別所重棟らが家を支えたとされる。永禄11年(1568年)の信長上洛の後、別所家は信長に従った。
信長からの離反と三木合戦
天正6年(1578年)、長治は信長から離れ、毛利氏と手を結んだ。これにより秀吉は三木城を攻めることになった。これを三木合戦という。
秀吉は城の周りに多くの付城(攻める側が築く陣地)を築き、兵糧の運び込みを断った。この兵糧攻めは「三木の干殺し」と呼ばれる。毛利方の補給も阻まれ、城内は深刻な飢えに苦しんだ。
離反の理由ははっきりしない。播磨の諸勢力をまとめる役が秀吉に移ったことへの不満や、毛利方との関係などが挙げられているが、諸説ある。長治の離反に同調した播磨の国人も多く、秀吉の播磨平定は大きくつまずいた。
天正6年には摂津の荒木村重も信長に背き、三木城への補給路は一時つながった。しかし秀吉は付城を増やして包囲を固め、毛利方の兵糧搬入を狙った動きも退けた。
開城と自害
籠城は2年近くに及んだ。天正8年(1580年)1月、長治は城兵の命を助けることを条件に降伏を申し出た。
同年1月17日、長治は一族とともに自害した。辞世は「今はただ恨みもあらず諸人のいのちにかはる我身と思へば」と伝わる。三木城跡と付城跡は、国の史跡に指定されている。
長治とともに、弟の友之、叔父の吉親も命を絶ったとされる。三木城の攻略は、秀吉が中国攻めを進めるうえで大きな節目となった。
ゆかりの地
- 三木城跡(兵庫県三木市上の丸町):長治の居城。国史跡「三木城跡及び付城跡・土塁」























