佐竹義宣 | 名門佐竹を秋田へ導いた慎重の当主

佐竹義宣

さたけ よしのぶ

地域関東
所属勢力・属性佐竹氏当主・豊臣~徳川大名
大名家佐竹氏
家紋五本骨扇に月丸
主武器刀・采配
衣装・甲冑黒を基調とした具足に陣羽織
武将タイプ思慮深き統治者
目次

佐竹義宣とは

佐竹義宣とは、常陸を治めた名門佐竹氏の当主で、豊臣政権下で54万石を領し、関ヶ原の後に出羽秋田へ移されて近世大名佐竹家の礎を築いた武将である。慎重で誠実な人柄が伝えられる。元亀元年(1570年)、佐竹義重の子として生まれた。佐竹氏は清和源氏の流れをくむ常陸の名門で、義重の代に版図を大きく広げ、北の伊達氏や南の後北条氏としのぎを削る東国有数の大勢力へと成長していた。若くして家督を継いだ義宣は、豊臣秀吉の天下統一の動きにいち早く応じた。小田原征伐に参陣して秀吉に臣従し、常陸一国と下野の一部を安堵され、太閤検地を経て54万石余を領する大大名としての地位を確立した。豊臣政権では石田三成と親交を結んだと伝わる。慶長2年(1597年)、縁戚の宇都宮国綱が改易された折には三成の仲介に助けられたとされ、両者の結びつきは政権内でも広く知られていた。

三成が武断派の諸将に襲われた際、義宣が三成を助けて窮地を救ったという逸話も語られる。ただしこれを裏づける確かな一次史料は乏しく、後世の伝承としてあくまで慎重に扱う必要があるだろう。慶長5年(1600年)、天下を二分する関ヶ原の戦いが起こると、義宣の去就は定まらなかった。会津の上杉景勝と通じる密約を交わしたとも伝わる一方、家康にも積極的には敵対せず、曖昧な姿勢を貫いた。父義重は徳川方への協力を説き、義宣は西軍寄りの心情を抱くなど、佐竹家中の意見は割れたとされる。結局、大きな軍事行動には至らず、わずかな兵を秀忠のもとへ援軍として送るにとどまった。戦後、この日和見的な態度は家康の強い不信を招いた。処分の定まらぬまま二年を経て、慶長7年(1602年)、義宣は出羽秋田への転封を命じられ、54万石から20万石へと大きく所領を減らされた。

江戸に近く無傷の大兵力を保っていた佐竹氏を遠ざける狙いがあったともいわれる。先祖代々の常陸を離れる無念の中、義宣は多くの家臣を率いて、遠い北国の新天地へと移っていくこととなった。秋田入部の後、義宣は久保田の地に新たな城の築城を始めた。横手を推す父義重の案を退けて久保田城を本拠と定め、城下町の整備や新田の開発を進めて、藩政の土台を着実に固めていった。慶長19年(1614年)からの大坂の陣では徳川方として出陣し、玉造口で奮戦した。家臣の渋江政光を失う激戦であったが、その働きは幕府に高く評価され、佐竹家の立場を安んじる一助となった。寛永10年(1633年)、義宣は江戸で64年の生涯を閉じた。実子に恵まれなかったが、彼の築いた久保田藩は幕末まで存続し、常陸以来の名門佐竹家を近世大名として後世へと確かに伝えることとなった。

親族・主従・ライバル ― 人物相関

義宣の生涯を語るうえで欠かせないのが、父義重との路線の違いである。歴戦の勇将であった義重は徳川方への協力を説いたが、義宣は豊臣への恩義を重んじ、去就をめぐって親子の考えは大きく食い違ったと伝わる。その豊臣への傾きを象徴するのが、石田三成との深い親交であった。政権の実務を担う三成と結んだ縁は、宇都宮国綱の改易に際して佐竹家が助けられたともいわれ、義宣の政治的な立ち位置を決定づけていった。

縁戚の宇都宮国綱もまた、義宣の周辺を彩る人物である。国綱の改易は隣国の大名家の没落であり、佐竹家にとっても他人事ではなかった。義宣が三成を頼りとした背景には、こうした縁者の危機もあったとされる。関ヶ原に際しては、会津の上杉景勝との密約が取りざたされる。上杉方に与する旨を交わしたとも伝わるが、義宣は積極的な行動を控え、家康と景勝の双方をにらむ、極めて難しい均衡の上に身を置き続けた。

秋田へ移った後の義宣を支えたのが、家老の渋江政光であった。藩政の礎を築いた智将として知られた政光は、大坂の陣の激戦で命を落とし、その死は主君義宣にとって痛恨の別れとなったと伝えられている。

逸話・エピソード

常陸54万石から出羽20万石への転封は、義宣にとって痛恨の出来事であった。先祖代々の地を離れる無念は深く、家臣たちも故郷を捨てて北へ向かったと伝わる。新天地での苦難は、想像に難くないものであった。秋田入部の折、身なりの貧しさを笑われた家臣が「これは主君への忠義ゆえの姿だ」と胸を張ったという逸話も語られる。減封の苦境の中でも、佐竹家中の結束は失われなかったことを物語る話として伝わっている。

本拠を定めるにあたり、義宣は父義重の横手案を退けて久保田の地を選んだと伝わる。親子の路線の違いはここにも表れたが、義宣の決断した久保田城は、幕末まで続く秋田藩の中心として長く栄えることとなった。大坂の陣では、玉造口で木村重成や後藤基次の軍勢と激しく渡り合った。家老渋江政光を失う代償を払いながらも佐竹勢はよく戦い、その働きは幕府に高く評価され、減封の汚名をそそぐ一戦になったと伝わる。

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