そうま もりたね
| 地域 | 東北 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 相馬氏第15代当主(陸奥小高城主) |
| 大名家 | 相馬氏 |
| 家紋 | 繋ぎ馬 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 「相馬の長老」・不屈 |
相馬氏第15代当主で、陸奥小高城主。母は伊達稙宗の娘。伊達晴宗・輝宗としばしば戦い、一時は伊達領の伊具郡を領有したが、のち講和して返した。天正6年に家督を子の義胤に譲った後も、子らとともに政治・軍事に関わった。
伊達氏と縁の深い相馬家当主
相馬盛胤(そうま もりたね)は享禄2年(1529)に生まれた。父は相馬氏14代の顕胤、母は伊達稙宗の娘である。相馬氏は陸奥国行方郡の小高城(現在の福島県南相馬市)を本拠とし、宇多・行方・標葉の3郡を治めていた。
天文11年(1542)に始まる伊達氏の内紛(天文の乱)では、父顕胤が稙宗方に付いた。乱は天文17年(1548)に晴宗方の優勢で和睦となり、稙宗は伊具郡の丸森城に隠居した。
盛胤の妻は懸田義宗の娘である。伊達氏とは血縁で深く結ばれていたが、そのことがかえって伊達氏の内紛に巻き込まれる原因となった。
伊具郡をめぐる争い
盛胤は天文18年(1549)、父の死により家督を継いだ。以後、伊達晴宗・輝宗としばしば戦った。争いの中心は、相馬領の北に接する伊具郡の丸森城や金山城などである。
家督を継いだ後、盛胤は妹を三春の田村清顕に嫁がせ、化粧料(嫁入りに伴って与える所領)として標葉郡の一部の村々を譲ったとされる。
盛胤は一時この伊具郡を領有したが、のちに講和して伊達氏に返した。伊達氏との抗争は、盛胤・義胤の二代にわたって続いた。
隠居後と相馬家の存続
天正6年(1578)1月、盛胤は家督を嫡男の義胤に譲って隠居した。隠居後も子らとともに政治・軍事に関わった。
天正17年(1589)、伊達政宗が蘆名氏を滅ぼすと、相馬氏は苦しい立場に置かれた。翌年の小田原征伐を経て、相馬氏は豊臣秀吉から所領を安堵された。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは中立的な立場をとった。盛胤は慶長6年(1601)10月16日、73歳で没した。
ゆかりの地
- 小高城跡(南相馬市):相馬氏の本拠。





















