櫛橋則伊 | 赤松政則の重臣、播磨櫛橋氏の武将

櫛橋則伊のイラスト(イメージ)

くしはし のりこれ

地域播磨国(兵庫県南西部)
所属勢力・属性赤松氏家臣(奉行人)
大名家赤松家
家紋―
主武器刀
衣装・甲冑大鎧・胴丸
武将タイプ奉行・重臣型

櫛橋則伊は、室町時代の播磨守護・赤松氏に仕えた櫛橋氏の武将である。嘉吉の乱で父を失ったが、僧であったため命を助けられた。のちに赤松家を再興した赤松政則のもとで、三奉行の一人として活躍した。

目次

赤松氏の忠臣・櫛橋氏

櫛橋氏は、南北朝時代から戦国時代にかけて、播磨守護の赤松氏に仕えた家臣の家である。当主が代々戦で討ち死にしたという話が伝わり、赤松氏の忠臣として知られる。赤松氏ゆかりの白旗城跡には「櫛橋丸」と呼ばれる区画も伝わるが、その由来ははっきりしない。

則伊は永享4年(1432)ごろの生まれとされる。父は櫛橋貞伊である。

嘉吉の乱と父の死

嘉吉元年(1441)、赤松満祐が将軍足利義教を殺す事件がおきた。これを嘉吉の乱という。赤松氏は幕府軍に攻められて滅び、播磨は山名氏のものとなった。

父の貞伊は満祐の子の教康を守って伊勢へ逃れたが、北畠氏に捕らえられて斬られた。このとき則伊は9歳ほどであった。幼いころから僧籍に入っていたため、命を助けられたとみられる。

赤松政則の三奉行

応仁元年(1467)、応仁の乱がおこると、赤松家を再興した赤松政則は則伊を呼び寄せた。則伊は僧をやめて武士に戻り、政則の重臣となった。豊後守を名乗った。

政則は、長禄2年(1458)ごろ旧赤松家臣が南朝方から神璽を取り戻した功によって家の再興を許された人物である。応仁の乱では東軍について播磨を取り戻した。則伊はその政則を支えた。文明10年(1478)ごろからは、阿閉重能・馬場則家とともに政則の側近「三奉行」となった。訴えを裁いたり、主君の命令を伝える文書を出したりする役目である。

文明15年(1483)、山名氏が播磨へ攻め込むと、則伊は備前の福岡城に入って守った。翌年正月の戦いでは、山名方の武将と一騎打ちをしたと伝わる。その後、政則が一時力を失ったときも、京都で政則の取り次ぎを務め、復帰を助けた。

最期と櫛橋氏のその後

則伊は文明18年(1486)12月23日に亡くなったと、書写山十地坊の過去帳に記されている。戦死か病死かを示す史料は残っていない。

櫛橋氏はその後も赤松氏の家臣として続き、戦国時代には志方城(兵庫県加古川市)を本拠とした。織田信長に背いて城を落とされたが、黒田官兵衛の妻・光姫が櫛橋氏の出であったことから、その縁は黒田家を通じて福岡へ受け継がれた。

ゆかりの地

  • 書写山圓教寺(兵庫県姫路市):則伊の没年を記す過去帳が伝わった寺
  • 白旗城跡(兵庫県赤穂郡上郡町):赤松氏の城。「櫛橋丸」と呼ばれる区画が伝わる

参考にした資料

櫛橋則伊とは

櫛橋則伊は、播磨の赤松家に仕えた櫛橋氏の武将です。

櫛橋氏

櫛橋氏は、赤松家の忠臣として知られる家で、播磨の志方城などを本拠としました。

嘉吉の乱

嘉吉元年(1441年)、赤松満祐が将軍を討った嘉吉の乱で、赤松家は一時滅びました。

評価

則伊は、赤松家の再興を支えた忠臣として知られる櫛橋氏の一人です。のちに櫛橋家からは、黒田官兵衛の妻・光が出ました。

このイラストについて

このイラストは、城と川を見下ろす高台に立つ則伊を描いています。

落ち着いた表情と赤い衣の甲冑で、赤松家を支えた忠臣の姿を表しました。

霧の立つ平野と城は、櫛橋氏が治めた播磨の景色をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

赤松家

室町幕府の侍所の長官を務める四職の一つで、播磨・備前・美作の守護を兼ねた名門。1441年に赤松満祐が将軍足利義教を殺害した嘉吉の乱で一度滅びたが、のちに再興された。

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主家

赤松則房

家臣団

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