三浦義就 | 今川家臣。笠寺砦の守将、桶狭間で討死

みうら よしなり

地域東海
所属勢力・属性今川家臣
大名家今川
家紋―
主武器太刀
衣装・甲冑実戦具足
武将タイプ勇猛・武骨

三浦義就は駿河今川氏の家臣で、通称は左馬助である。今川義元の命で尾張の笠寺砦の守将を務め、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで討死したとされる。事績を伝える史料は少なく、生年も分かっていない。

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駿河の三浦氏

今川家臣の三浦氏は、源頼朝に仕えた相模の三浦一族の流れをくみ、駿河へ移った家とされる。義就はその一族である。生年は分かっていない。通称は左馬助である。

尾張の笠寺砦

今川義元は三河を支配下に置き、尾張東部へ勢力を広げた。鳴海城や大高城が今川方の拠点となり、笠寺(現在の名古屋市南区)にも砦が構えられた。義就は天文20年(1551)に義元から笠寺砦の守将に任じられたとされる。

笠寺は鳴海城の西、天白川の河口に近い台地にあった。今川方はここを押さえることで、鳴海・大高と結ぶ尾張東部の拠点網を築いた。織田方の熱田や那古野に近く、両勢力の境目にあたる場所であった。

『信長公記』首巻は、笠寺の要害に葛山・岡部五郎兵衛・三浦左馬助・飯尾豊前守・浅井小四郎の5人が在城したと記す。この「三浦左馬助」が義就にあたると考えられている。

桶狭間の戦い

永禄3年(1560)5月、義元は大軍を率いて尾張へ進んだ。5月19日、今川軍は桶狭間で織田信長の攻撃を受け、義元は討たれた。この戦いでは義元のほかにも多くの今川家臣が討死した。義就もこの戦いに従い、討死したとされる。

ゆかりの地

  • 笠寺(愛知県名古屋市南区):義就が守将を務めた笠寺砦のあった地
  • 桶狭間古戦場(愛知県名古屋市緑区・豊明市):義就が討死したとされる戦いの地
今川家

主家

家臣団

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