森忠政 | 森可成の末子。兄たちの相次ぐ戦死で森家を継ぎ、美濃から信濃川中島、そして信濃津山藩18万石の初代藩主となる

もり ただまさ

地域東海・中国
所属勢力・属性森氏
大名家森氏
家紋丸に水車
主武器太刀・采配
衣装・甲冑黒塗具足
武将タイプ苛烈・統治

森忠政は、織田信長の重臣・森可成の六男(末子)として生まれた。兄たちには本能寺の変で信長と運命を共にした森蘭丸・坊丸・力丸、小牧・長久手の戦いで討死した猛将・森長可がおり、忠政は相次ぐ兄たちの横死によって若くして森家の家督を継ぐこととなった。

家督相続後は織田信雄、続いて豊臣秀吉に仕え、天正18年(1590年)の小田原征伐における功により信濃川中島に13万7500石を与えられて大名に列した。気性の激しさは兄・長可譲りとされ、川中島時代には家臣との軋轢から重臣を手討ちにする事件を起こすなど、苛烈な統治ぶりで知られた。

関ヶ原の戦いでは東軍に与して功を挙げ、慶長8年(1603年)に美作一国18万6500石へ加増移封されて津山藩の初代藩主となった。忠政は津山盆地の中心に新たに津山城を築き、城下町の町割りを一から整備するなど近世大名として卓越した統治手腕を発揮し、今日の津山の礎を築いた名君として知られている。

目次

森忠政とは

森忠政は、森可成の末子で、兄・森長可の跡を継いで森家の当主となりました。

兄たちの死

忠政の兄のうち、可隆は戦死し、成利(蘭丸)・長隆・長氏は本能寺で討死しました。長可も小牧・長久手の戦いで命を落としました。

美濃金山

忠政は、兄・長可のあとを受けて美濃の金山城主となりました。

信濃の川中島

関ヶ原の前、忠政は信濃の川中島に移され、海津城を本拠としました。

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いで、忠政は東軍につき、信濃で真田家の動きに備えたとされます。

美作津山へ

慶長8年(1603年)、忠政は美作一国を与えられ、津山に移りました。

津山城

忠政は、津山に壮大な石垣を持つ津山城を築きました。完成までには十年以上かかったと伝えられます。

津山の城下町

忠政は、城とともに城下町を整え、今の津山市の町並みの基礎を作りました。

忠政の死

忠政は、寛永11年(1634年)に京で急に亡くなりました。

森家のその後

森家は、のちに津山を離れ、播磨の赤穂藩の藩主として続きました。

鬼武蔵の弟

兄の長可は「鬼武蔵」と呼ばれた猛将でした。忠政は、兄の遺言で家を継いだとも伝えられます。

津山城跡

津山城の跡は、今は鶴山公園として整えられ、壮大な石垣が残っています。春には桜の名所として知られます。

兄・森長可

忠政の兄・長可は「鬼武蔵」と呼ばれた勇将で、小牧・長久手の戦いで討ち死にしました。

兄・森蘭丸

兄の蘭丸(成利)は織田信長の小姓として知られ、本能寺の変で信長とともに命を落としました。

評価

忠政は、多くの兄を失いながら森家を継ぎ、津山藩を開いた大名です。津山城と城下町は、忠政の大きな遺産となっています。

このイラストについて

このイラストは、石垣を築く現場を背に立つ忠政を描いています。

若々しい顔と鋭い目つきで、兄たちの跡を継いで家を背負った当主の決意を表しました。

組まれた足場と石垣は、忠政が築いた津山城の普請をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

森家

美濃の森可成に始まる家。可成は織田信長の重臣だったが、1570年に浅井・朝倉軍との戦いで戦死した。子の長可は「鬼武蔵」と呼ばれた猛将で、小牧・長久手の戦いで戦死し、信長の小姓として知られる森蘭丸(成利)は本能寺の変で信長とともに亡くなった。

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家臣団

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