わだ あきため
| 地域 | 常陸→出羽 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 佐竹家臣(宿老) |
| 大名家 | 佐竹家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 内政・外交型 |
和田昭為は、常陸の佐竹義昭・義重・義宣の3代に仕えた宿老である。一度は佐竹家を離れて白河結城氏に身を寄せたが、のちに帰参を許された。慶長7年(1602)の佐竹氏の秋田移封では、先に秋田へ入って領地の受け取りにあたった。
石井氏から和田氏へ
昭為は石井氏の出身で、養子として和田氏を継いだとされる。安房守を名乗った。家系は本姓を平氏とし、代々佐竹氏に仕えた家とされる。
生没年は不詳とする資料がある一方、元和4年(1618)に87歳で没したとする記述もある。
出奔と帰参
元亀2年(1571)、昭為は同じ佐竹家臣の車丹波(斯忠)から「逆意がある」と訴えられ、佐竹家を追われた。このとき、佐竹義重によって昭為の息子3人と一族20人あまりが殺されたと伝わる。
昭為は南奥州の白河結城氏(白川義親)のもとに身を寄せた。しかし天正3年(1575)、白河で争いが起こると、昭為は佐竹方に内応して白河領内の戦いで働いた。この功によって、佐竹家への帰参を許された。家族を失ったうえでの帰参であり、昭為の人生は波乱に満ちていた。
佐竹家の宿老として
帰参後の昭為は、佐竹家の宿老として内政と外交の両方で重んじられた。佐竹氏は義重・義宣の代に勢力を広げ、天正18年(1590)ごろには常陸をほぼ統一した。昭為はその家中を支えた一人である。
佐竹氏は北の伊達氏や蘆名氏、南の北条氏と境を接していた。戦いだけでなく、周りの大名との交渉が家の存続を左右した。昭為はそうした外交の場でも力を発揮した人物とされる。
秋田移封と晩年
関ヶ原の戦いののち、慶長7年(1602)5月、佐竹氏は常陸から出羽の秋田へ国替えを命じられた。昭為は義宣の命を受け、川井忠遠とともに6月に常陸を出発した。7月に秋田に着くと、秋田氏の役人と交渉して領地を受け取り、8月には城を受け取って先に来た家臣たちを配置した。
義宣が土崎の湊城に入ったのは同年9月のことである。昭為は主君を迎える準備を整え、移封を円滑に進めた。翌慶長8年(1603)には家老の職から退いたとされる。佐竹氏はその後、久保田藩(秋田藩)主として幕末まで続いた。
秋田入部は、地元の勢力との交渉が欠かせない難しい仕事であった。昭為はその先遣役を任され、長年の経験を生かして務めを果たした。
ゆかりの地
- 土崎湊城跡(秋田県秋田市):佐竹義宣が秋田入部の際に最初に入った城
参考にした資料
和田昭為とは
和田昭為は、常陸の佐竹家に仕えた重臣です。佐竹家の政治を長く支えました。
佐竹家の宿老
昭為は、佐竹義重・義宣の時代に宿老として家の政治を担いました。
秋田への移り
関ヶ原ののち、佐竹家が秋田に移されると、昭為も主家とともに移りました。
評価
昭為は、一度は家を離れながら佐竹家に戻り、宿老として長く家を支えた人物です。
このイラストについて
このイラストは、屋敷の中で書状に目を落とす昭為を描いています。
白髪の年配の顔と静かな表情で、家の政治を担った宿老の落ち着きを表しました。
書物の並ぶ室内は、昭為が政務をとった屋敷をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
清和源氏の流れをくむ常陸の名門。佐竹義重は「鬼義重」とも呼ばれ、関東へ勢力を広げる北条氏と争い、南奥州にも進出して伊達政宗とも戦った。
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