平岡直房 | 河野氏の重臣平岡房実の子、三津浜夜襲の将

平岡直房の肖像

ひらおか なおふさ

地域四国
所属勢力・属性河野氏家臣のち毛利氏家臣
大名家平岡氏(河野氏家臣)
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ国衆・旧臣

平岡直房は、伊予の河野氏の重臣平岡房実の子である。河野氏が滅んだ後も旧主への思いを持ち続け、関ヶ原の戦いの年に荏原城跡で兵を挙げた。のちに毛利氏に仕え、子孫は長州藩士として続いたと伝わる。

目次

平岡氏と父・房実

平岡氏は伊予の河野氏に仕えた家で、浮穴郡の荏原城(現在の愛媛県松山市恵原町)を居城とした。父の平岡房実は、もとは伊予郡の一族の長にすぎなかったが、その力を買われて河野氏の重臣となり、執事を務めたとされる。

房実の娘は大野利直に嫁いでいる。結婚を通じて周りの有力な家と結びつき、平岡氏は河野家中で重みを増した。

兄・通倚と河野氏の滅亡

直房は房実の子で、通称を善兵衛という。上の兄の通資が早く亡くなったため、兄の通倚が家を継いだ。

天正13年(1585)、豊臣秀吉の四国攻めで伊予にも大軍が攻め入った。通倚は河野氏の本拠である湯築城の二の丸を守ったが、降伏し、子の通長を人質に出したとされる。荏原城もこのとき落城した。その後、当主の河野通直は安芸の竹原に移り、通倚もこれに従った。こうして戦国大名の河野氏は滅んだ。

関ヶ原の年の挙兵

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが起こった。西軍の毛利輝元は、東軍の加藤嘉明が治める伊予に兵を送った。直房は荏原城の跡に立てこもって一揆を組織し、毛利勢に味方した。河野氏の支配を取り戻そうとしたとされる。

しかし、加藤方の松前城の兵に鎮められ、試みは失敗に終わった。この戦いは三津浜夜襲とよばれる。

毛利家臣としての後半生と子孫

戦いの後、直房は毛利輝元に召し抱えられ、500石を与えられたと伝わる。毛利方の村上氏の配下として働いたともいわれる。のちに周防の大島郡和佐村に隠居し、慶安元年(1648)に79歳で亡くなったと伝わる。生まれた年を天文20年(1551)とする説もあり、生没年ははっきりしない。

家は嫡子の就房が継いだ。子孫は明治維新まで毛利氏に仕えたとされる。主家を失った伊予の武士が、長州藩士として家を残した例である。

ゆかりの地

  • 荏原城跡(愛媛県松山市恵原町):平岡氏の居城。直房が慶長5年に立てこもった。土塁と水堀が残る
  • 湯築城跡(愛媛県松山市道後公園):河野氏の本拠。兄通倚が二の丸を守った

参考にした資料

平岡直房とは

平岡直房は、伊予の河野家の重臣・平岡房実の子です。

父・房実

父の房実は、河野家の筆頭家老として、毛利家との同盟や長宗我部家への備えを担いました。

河野家の滅亡

天正13年(1585年)、秀吉の四国攻めで河野家は大名としての力を失いました。

評価

直房は、父とともに河野家を支え、主家が滅んだのちも伊予のために動いた武将です。のちに毛利家の家臣として生きました。

このイラストについて

このイラストは、陣の旗が並ぶ野で、槍を手に立つ直房を描いています。

引き締まった顔と紋の入った羽織で、河野家の重臣の家を継いだ武将の姿を表しました。

霧の立つ平野と城は、河野家が治めた伊予の景色をイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

河野家

伊予の守護を務めた家で、古代からの名族・越智氏の流れをくむと伝えられる。湯築城を本拠としたが、戦国時代には一族や家臣の内紛、周辺の大友・長宗我部・毛利各氏の圧迫に苦しんだ。

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主家

河野通直河野通宣

家臣団

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