島左近 | 三成に過ぎたるものと称された軍略家。関ヶ原の戦いでは先鋒として東軍を恐怖に陥れた戦国屈指の猛将

島左近

しま さこん

地域近畿
所属勢力・属性石田家臣
大名家石田
家紋丸に三ツ柏
主武器大太刀・陣太刀
衣装・甲冑黒塗重厚具足
武将タイプ豪毅・鬼神

「三成に過ぎたるもの」と称された軍略家。関ヶ原の戦いでは先鋒として東軍を恐怖に陥れた戦国屈指の猛将。

3行でわかる島左近
  • 名は清興とされる(勝猛・友之とも)。生年は不詳。大和平群谷の島氏の出身とする説が有力で、筒井家の重臣として活躍した
  • 天正16年(1588年)に筒井家を離れ、のち石田三成に仕えた。「治部少に過ぎたるもの二つあり、島の左近と佐和山の城」とうたわれた
  • 慶長5年(1600年)、杭瀬川の戦いで東軍を破り、翌日の関ヶ原本戦で戦死したとされる。京都には生き延びたとする説にもとづく墓がある
目次

三成に過ぎたるもの・島左近

島左近(しま さこん)は、豊臣政権の重臣・石田三成に仕えた軍略家で、「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とうたわれた、戦国屈指の猛将です。三成が破格の待遇で招いたと伝えられる、名高い武将でした。

石田三成の軍師

島左近は、もと大和の筒井氏に仕えた武将で、その武略を見込んだ石田三成に、自らの禄の半分を与えてまで招かれたと伝えられます。行政官として知られる三成にとって、軍事に長けた島左近は、まさに得がたい軍師でした。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、島左近は西軍の先鋒として奮戦しました。前哨戦の杭瀬川の戦いでは東軍を巧みに破り、本戦でも東軍を相手に激しく戦って、その武名は敵をも恐怖させたと伝えられます。

関ヶ原に散った猛将

しかし、小早川秀秋の裏切りなどによって西軍は総崩れとなり、島左近もこの関ヶ原の激戦のなかで壮絶な最期を遂げたとされます。その戦いぶりは、東軍の将兵の記憶に長く残ったといいます。島左近の生涯は、「三成に過ぎたるもの」と称された名軍師の武略を、関ヶ原の激闘とともに今に伝えています。

筒井家の重臣として

左近は、大和国平群谷(現在の奈良県平群町)の椿井城・西宮城を本拠とした島氏の出身とする説が有力である。椿井城は、筒井順慶方の島左近と、信貴山城の松永久秀がたびたび奪い合った城と考えられている。

左近は松倉重信と並ぶ筒井家の重臣となったが、順慶の死後、跡を継いだ筒井定次のもとを天正16年(1588年)に去った。その後は蒲生氏郷や、豊臣秀長・秀保に仕えたとも伝わる。

三成に過ぎたるもの

天正18年(1590年)ごろから、左近は石田三成に仕えた。三成が自分の禄4万石の半分を与えて招いたという話はよく知られるが、これは伝承である。それでも「治部少(三成)に過ぎたるもの」とまでうたわれたことは、左近の名声の大きさを物語っている。

杭瀬川から関ヶ原へ

慶長5年(1600年)9月14日、左近は大垣城近くの杭瀬川で東軍の中村・有馬勢を誘い出して破り、西軍の士気を高めた(杭瀬川の戦い)。翌15日の関ヶ原本戦では、石田隊の先鋒として黒田長政・田中吉政の隊と激しく戦い、討ち死にしたというのが通説である。

一方で、京都の立本寺の塔頭・教法院には、寛永9年(1632年)に没したと刻まれた左近の墓があり、関ヶ原を生き延びたとする説の根拠になっている。ほかにも各地に墓とされるものが伝わり、最期ははっきりしない。

島左近をめぐる人物

ゆかりの地

  • 椿井城跡(奈良県平群町):島氏の本拠とされる山城。筒井方の左近と松永久秀が奪い合ったと考えられている
  • 立本寺・教法院(京都市上京区):「寛永9年没」と刻まれた左近の墓があり、生存説の舞台として知られる
  • 関ヶ原古戦場(岐阜県関ケ原町):石田三成の陣があった笹尾山の前で、左近は先鋒として戦ったとされる
  • 佐和山城跡(滋賀県彦根市):「島の左近と佐和山の城」と並び称された三成の居城

この人物をもっと知る本

  • 【歴史小説】司馬遼太郎『関ヶ原』(新潮文庫・全3巻):三成と左近の主従が物語の軸の一つ。関ヶ原を描いた定番の長編
  • 【歴史小説】佐竹申伍『島左近 石田三成を支えた義将』(PHP文庫):左近を主人公にした長編小説
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