宇喜多直家 | 謀略で備前を手にした下剋上の大名。毛利から織田へ寝返り、子・秀家に家を託す

宇喜多直家のイラスト(イメージ)

うきた なおいえ

地域中国(備前)
所属勢力・属性浦上氏の家臣→独立→毛利方→織田方
大名家宇喜多氏
家紋剣片喰(宇喜多家)
主武器太刀・鉄砲
衣装・甲冑黒い具足に陣羽織
武将タイプ謀略の下剋上大名

宇喜多直家(うきた なおいえ)は、備前(今の岡山県東南部)の戦国大名である。享禄2年(1529年)に生まれ、天正9年(1581年)末から翌年初めごろに亡くなったとされる。主家の浦上氏の家臣から身を起こし、敵対する武将を暗殺や謀略で次々に除いて勢力を広げたことで知られる。岡山城を本拠とし、晩年には毛利方から織田方に寝返った。子は五大老の一人となった宇喜多秀家である。

3行でわかる宇喜多直家
  • 備前の浦上氏の家臣から出世し、謀略を重ねて勢力を広げた
  • 岡山城を本拠とし、主家の浦上宗景を追って備前・美作の大部分を押さえた
  • 天正7年(1579年)ごろ毛利方から織田方に寝返り、子の秀家はのちに秀吉の養子格として五大老となった
目次

謀略による下剋上

直家の祖父・能家は浦上氏の重臣だったが、直家が幼いころに討たれ、宇喜多家は一時没落したと伝わる。直家は浦上宗景に仕えて家を再興し、周りの敵対する武将を、暗殺や謀略を使って次々に除いていった。

永禄9年(1566年)には、備中の三村家親を鉄砲で暗殺させたと伝わる。こうした手段から、直家は「梟雄」と呼ばれることが多い。ただし、多くの逸話は後の軍記によるもので、どこまで事実かはわからない部分もある。

岡山城と主家からの独立

直家は岡山城を本拠として城下町を整え、のちの岡山の町の基礎を作った。やがて主家の浦上宗景と対立し、天正3年(1575年)ごろから宗景を追いつめて、備前・美作の大部分を押さえた。

毛利から織田へ

直家ははじめ中国地方の毛利家と結んでいたが、豊臣秀吉が中国攻めを進めると、天正7年(1579年)ごろ織田方に寝返った。これにより、秀吉は備前・美作を通って備中へ進めるようになった。

直家は本能寺の変の前に亡くなったが、子の秀家は秀吉にかわいがられ、豊臣政権の五大老の一人となった。大河ドラマでは「第22回「播磨大誤算」」などに登場している。

宇喜多直家をめぐる人物

ゆかりの地

  • 岡山城(岡山県岡山市):直家が本拠とし、子の秀家が大きく築き直した城
  • 亀山城跡(沼城)(岡山県岡山市):岡山城に移る前の直家の居城
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