くちば みちよし
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利家臣 |
| 大名家 | 毛利 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 太刀・行政書状 |
| 衣装・甲冑 | 重臣具足 |
| 武将タイプ | 宿老・行政 |
口羽通良(1513〜1582)は毛利氏の重臣。志道広良の次男で、石見国口羽を領して口羽氏を称した。吉川元春を補佐して山陰の制圧と統治にあたり、毛利元就の死後は吉川元春・小早川隆景・福原貞俊とともに「御四人」として輝元を支えた。
志道氏から口羽氏へ
口羽通良は永正10年(1513)の生まれ。父は毛利氏の執政を務めた志道広良である。天文3年(1534)、備後の山内直通から「通」の字を与えられ、通良と名乗った。
はじめは志道姓であった。のちに石見国邑智郡口羽村(邑南町)を領し、琵琶甲城を居城としたことから口羽を名字とした。官途は刑部大輔、受領名は下野守である。
山陰方面での働き
通良は天文9〜10年(1540〜41)の吉田郡山城の戦いに加わった。その後は毛利元就・隆元・輝元の三代に仕えた。
主な役割は、吉川元春を補佐して山陰地方の制圧と統治にあたることであった。永禄5年(1562)には来嶋清行と起請文を交わしている。元亀元年(1570)には、湯原氏の軍功を吉川元春と連名で上申した。
御四人として
元亀2年(1571)に元就が没すると、若い当主輝元を補佐する体制が組まれた。通良は吉川元春・小早川隆景・福原貞俊とともにその一角を担った。この4人は「御四人」と呼ばれる。
御四人は輝元の後見として、毛利家の政務と軍事の重要事項を合議した。通良は元春とともに山陰方面を受け持つ立場にあった。
通良は天正10年(1582)7月28日に70歳で没した。墓は島根県邑南町の宗林寺にある。子に広通・春良がいる。
ゆかりの地
- 琵琶甲城跡(邑南町):通良が築いた居城。出羽川と江の川の合流点近くに位置する
- 宗林寺(邑南町):通良の墓所
参考にした資料
毛利家の重臣
通良は、毛利元就とその孫の輝元に仕えた重臣です。1513年に生まれました。
志道広良の子
通良は、毛利家の執権として元就を支えた志道広良の子です。
口羽家を継ぐ
通良は、石見の口羽を本拠とする口羽家を継ぎました。
石見の要
口羽は、安芸と石見の国境に近い場所にあり、毛利家が石見に勢力を広げるうえで大切な土地でした。
石見銀山
石見には、世界的な銀の産地である石見銀山がありました。毛利家は、尼子家などと争いながら、この銀山を手に入れました。
石見の経営
通良は、石見の国衆との交渉や支配など、毛利家の石見の経営に深く関わったとされます。
元就の勢力拡大
通良は、元就が中国地方の大大名へと成長していく戦いの中で、毛利家を支えました。
輝元の時代
1571年に元就が亡くなると、孫の輝元が毛利家を継ぎました。
御四人
輝元の時代、毛利家の政治は、吉川元春・小早川隆景の「両川」と、福原貞俊・口羽通良の二人が中心となって進められました。この4人は「御四人」と呼ばれました。
家の政治を担う
通良は、両川とともに毛利家の重要な決定に関わり、若い輝元を支えました。
織田家との対立
このころ毛利家は、織田信長と対立し、羽柴秀吉の中国攻めを受けていました。
最期
通良は1582年に亡くなりました。
父と子
父の広良は元就を、子の通良は輝元を支え、親子二代にわたって毛利家の政治を担いました。
口羽家のその後
口羽家は、江戸時代にも長州藩の重臣の家として続きました。
通良の評価
通良は、志道広良の子として生まれ、口羽家を継いで石見の経営を担い、輝元の時代には「御四人」の一人として毛利家を支えた重臣です。
このイラストについて
白髪の老将が甲冑の上に装束をまとい、書状を手にして、城と旗を背にした姿です。
書状を手にした姿は、「御四人」の一人として毛利家の政治を担った通良をイメージしています。背景の旗の三つの星の紋は、毛利家の家紋をイメージしたものです。年長の姿は、元就・輝元の二代に仕えた通良を表しています。顔立ちは想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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