甲斐親英 | 甲斐宗運の嫡男、肥後国衆一揆で自害した阿蘇家臣

甲斐親英のイラスト(イメージ)

かい ちかひで

地域肥後国(熊本県)
所属勢力・属性阿蘇家臣・御船城主
大名家阿蘇家
家紋―
主武器槍
衣装・甲冑当世具足
武将タイプ猛将

甲斐親英は、阿蘇氏の重臣・甲斐宗運の嫡男で、父のあとを継いで御船城主となった肥後の武将である。出家して宗立と号した。島津氏との戦いで城を失い、天正15年(1587)の肥後国衆一揆で敗れて自害したとされる。

目次

名将・甲斐宗運の子

親英の父の甲斐宗運(親直)は、肥後の御船城主で、阿蘇氏の当主を支えた重臣である。豊後の大友氏と結び、のちに龍造寺氏に従い、やがて島津氏と向き合った。阿蘇家を守り抜いた知将として知られる。

親英は宗運の嫡男として生まれた。生年はわかっていない。名は親秀とも書き、出家してからは宗立と名乗った。

主家の阿蘇氏は、阿蘇神社の大宮司をつとめる家で、肥後の中部に勢力を持っていた。甲斐氏はその筆頭の家臣として、御船城を拠点に阿蘇領の西の守りを担った。御船城は御船町にある平山城で、まわりより30メートルほど高い台地の上にあった。

父の死と島津氏の侵攻

宗運は天正13年(1585)に没したとされる(天正12年とする資料もある)。その死をめぐっては毒殺説も伝わるが、病死ともいわれ、はっきりしない。

宗運が亡くなると、親英が御船城主として阿蘇家の重臣の座を継いだ。しかし、阿蘇家の守りの要を失ったことで、島津氏の攻勢が強まった。親英は島津方を攻めたが反撃を受け、ついに居城の御船城を捨てて退いた。御船城はその後、島津氏、さらに豊臣政権の支配へと移っていった。

肥後国衆一揆と最期

天正15年(1587)、豊臣秀吉が九州を平定すると、佐々成政が肥後の国主となった。成政は検地を進め、国衆に領地の台帳を出すよう命じた。これに隈部親永が反発し、肥後国衆一揆が起こった。

一揆勢は阿蘇衆や菊池武国らとともに隈本城を囲んだ。親英もこれに加わった。しかし阿蘇衆の一部が豊臣方に寝返ったため、甲斐・菊池ら一揆の中心勢力は崩れた。親英は深い傷を負って退き、自害したとされる。この戦いでの死者は約4900人にのぼったという。一揆はその後、秀吉が送った大軍によって鎮められた。佐々成政は責任を問われ、翌年には加藤清正が肥後に入った。こうして甲斐氏は武家としての家を失った。

甲斐神社として祀られる

伝承によれば、傷ついた親英を村人たちが手厚くかくまった。親英はその恩に感じ、死後は手足の不自由な人の役に立ちたいと願ったという。

その願いにちなみ、親英と父の宗運、甲斐一族を祀る甲斐神社(足手荒神)が天正15年に建てられたと伝わる。今も手足の守り神として信仰を集めている。

ゆかりの地

  • 御船城跡(熊本県上益城郡御船町):甲斐宗運・親英父子の居城。現在は城山公園

参考にした資料

甲斐親英とは

甲斐親英は、阿蘇家の名臣・甲斐宗運の子です。

父・宗運

父の宗運は、知略にすぐれた武将で、阿蘇家の領地を長く守り抜きました。

島津家の侵攻

宗運の死後、阿蘇家は島津家に攻められ、力を失っていきました。

肥後国衆一揆

天正15年(1587年)の肥後国衆一揆で、親英も一揆に加わり、命を落としたと伝えられます。

評価

親英は、名将の父の跡を継ぎながら、時代の大きな変化の中で命を落とした武将です。今は甲斐神社にまつられています。

このイラストについて

このイラストは、山城と陣を背に、槍をかついで立つ親英を描いています。

兜をかぶった若々しい顔で、名将の父の跡を継いだ武将の意志を表しました。

霧の立つ山々と城は、阿蘇家が治めた肥後の山あいをイメージしています。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

阿蘇家

肥後の阿蘇神社の大宮司を務めた家で、武士としての力も持った。戦国時代には大友氏と結んで、北の龍造寺氏や南の島津氏と向き合った。

阿蘇家の歴史と武将一覧を見る →

主家

阿蘇惟光のイラスト(イメージ)阿蘇惟将のイラスト(イメージ)阿蘇惟前のイラスト(イメージ)

家臣団

甲斐宗運の肖像
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