丿貫 | 京都・山科の侘び茶人。北野大茶湯で朱塗りの大傘を立てて秀吉を感心させ、利休を落とし穴に落としたと伝わる

丿貫のイラスト(イメージ)

へちかん

地域近畿(山城・山科)
所属勢力・属性侘び茶人(町人)
大名家―
家紋―
主武器―
衣装・甲冑粗末な道服・十徳
武将タイプ侘び茶人・奇人

丿貫(へちかん)は、戦国時代の終わりごろ、京都の山科に庵を結んで暮らした侘び茶人である。生まれた年も亡くなった年もはっきりせず、出身も美濃とも京都ともいわれる。武野紹鴎に茶を学んだと伝わり、名医・曲直瀬道三の姪を妻にしたという。天下人が名物を集めて豪華な茶会を開いた時代に、あえて貧しい暮らしを選んだ茶人として、多くの逸話が残っている。天正15年(1587)の北野大茶湯で、大きな傘の下に茶席を設けて豊臣秀吉を感心させた話がとくに名高い。

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

姉妹サイト「日本の歴史ガイド」がデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※姉妹サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

目次

「丿貫」という名前

名前は「ノ貫」「へち貫」などとも書かれる。「へち」は変わり者を意味する言葉だともいわれ、また「丿」の字は「人」という字の片方の払いだけであることから、自分を半人前とみなしてつけた号だとする見方もある。どれもはっきりした根拠があるわけではないが、名前そのものが、世間の価値観から一歩離れた人物像をよく表している。

山科の庵と、一つの鍋の暮らし

丿貫は山科の庵で、一つの鍋だけを使い、粥を炊くのも、水を汲むのも、湯を沸かして茶を点てるのもすべてそれ一つで済ませたという。その暮らしを詠んだ歌も伝わっている。

茶道具を売って金をこしらえたところ、その金を家から盗まれてしまったという話もある。豊かな商人の家に生まれた千利休について、貧しさを知らない人だと批判したとも伝わる。名物の茶器を何よりも重んじる時代に、道具を持たないことそのものを茶の湯にした人物だった。

北野大茶湯の大傘

天正15年(1587)10月1日、秀吉は京都の北野天満宮の松原で北野大茶湯を開いた。高札では、茶の湯に心がけのある者は、若党・町人・百姓を問わず、釜一つ、釣瓶一つ、飲み物一つでも持って参加してよい、茶がなければ麦こがしでもかまわない、と呼びかけ、境内には800とも1500ともいわれる茶席が並んだ。

このとき丿貫は、差し渡し一間半(約2.7メートル)ほどの朱塗りの大傘を立て、その下に茶席をしつらえたと伝わる。秀吉はこれを見て大いに感心し、褒美として諸役(税や労役)を免じたという。

この話は江戸時代に書かれた茶書などに伝わるもので、一次史料で確かめることはできない。それでも、名物を並べて天下人の権威を見せつけた大茶会で、道具ではなく趣向ひとつで秀吉をうならせた侘び茶人の話として、北野大茶湯といえば必ず語られる逸話になっている。大茶湯そのものについては北野大茶湯とはでくわしく書いている。

利休を落とし穴に落とした話

丿貫が利休を茶に招いたとき、茶室へ続く露地に落とし穴を掘っておいた。利休はそれに落ちて泥まみれになったが、丿貫は風呂と着替えを用意しており、利休は湯で身を清めてから茶席に入った。

のちに利休は、落とし穴があることには気づいていたが、亭主の趣向をくんであえて落ちたのだと語ったという。客を驚かせ、そのあとで心からもてなす丿貫と、それを受けとめる利休。もてなしとは何かをめぐる話として、茶の湯の世界で長く語り継がれてきた逸話である。

晩年 — 薩摩へ下り、歌を焼く

晩年は薩摩へ下ったと伝わる。亡くなる前には、書きためていた歌をすべて集めて焼いてしまったという。どこで、いつ亡くなったのかもわからない。記録がほとんど残っていないことそのものが、名声も財も求めなかった丿貫らしさとして語られている。

『豊臣兄弟!』第42回と北野大茶湯

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」は、この大茶会が舞台になる。秀吉や利休、津田宗及・今井宗久ら茶頭たちの華やかな席だけでなく、名もない人びとが思い思いに設けた茶席にも目を向けると、丿貫の大傘のような逸話がいっそう生き生きと見えてくるはずだ。

関わりの深い人物

ゆかりの地

  • 北野天満宮(京都市上京区):北野大茶湯の会場。秀吉が茶の湯に使った「太閤井戸」が残る
  • 山科(京都市山科区):丿貫が庵を結んで暮らしたと伝わる地
  • URLをコピーしました!

ほかの武将も見る

目次