長宗我部盛親 | 長宗我部元親の四男。関ヶ原で改易後、大坂の陣にて大坂五人衆として復権をかけ八尾・若江の戦い等で藤堂高虎軍を粉砕

長宗我部盛親 イラスト

ちょうそかべ もりちか

地域四国・近畿
所属勢力・属性長宗我部氏
大名家長宗我部氏
家紋七つカタバミ
主武器大槍・太刀
衣装・甲冑漆黒重厚具足
武将タイプ「大坂五人衆」・不屈
目次

長宗我部盛親とは

長宗我部盛親は、四国のほぼ全域を制圧した戦国大名・長宗我部元親の四男でありながら、兄たちを越えて土佐一国の家督を継ぎ、やがて一族の存亡を一身に背負うこととなった戦国末期を代表する悲運の武将である。関ヶ原の戦いと大坂の陣という二度の天下分け目の合戦にいずれも敗者の側で臨み、大名の座も広大な所領もことごとく失いながら、最後まで豊臣家への忠義を貫いて散ったその生涯は、滅びゆく者の悲劇として今日まで語り継がれている。

出自と家督相続の経緯

盛親は1575年ごろに、土佐の岡豊城を本拠とする長宗我部元親の四男として生まれたとされ、幼少より聡明さを示して父からひとかたならぬ期待を寄せられた後継候補であったと後世の記録には伝えられている。本来は長兄の信親が家督を継ぐはずであったが、1586年の戸次川の戦いで信親が討死したため、元親は次兄や三兄を差し置いて四男の盛親を強引に後継へ指名し、これが一族や重臣を巻き込む深刻な内紛の火種となった。

関ヶ原の戦いと西軍への加担

1599年に父・元親が世を去ると、盛親は名実ともに土佐一国の当主となったが、翌1600年に天下を二分して勃発した関ヶ原の戦いでは、成り行きから西軍に属して徳川方と対峙する立場に置かれた。盛親の率いる長宗我部勢は本戦において南宮山の周辺に布陣したものの、前方に陣取る毛利勢が動かなかったために戦機をつかめず、ほとんど戦うことのないまま西軍の敗北を迎え、戦後の過酷な処分に直面することとなった。

改易と土佐の喪失

盛親は敗戦後、家康への謝罪と本領の安堵を求めて上洛したが、その最中に家督をめぐって対立していた兄・津野親忠を家臣の讒言を容れて殺害する事件を起こし、これが家康の不興を決定的なものとした一因とされている。こうした失態も重なって長宗我部氏は改易の処分を受け、盛親は父祖三代が営々と築き上げた土佐一国をことごとく失い、大名としての地位を根こそぎ奪われて、一介の牢人へと転落する深い屈辱を味わうこととなった。

京での牢人時代

所領を失った盛親はその後、京の伏見や大坂の近郊に身を寄せ、わずかに従う長宗我部の旧臣らに支えられながら、いつの日かの家名再興を願いつつも、ついに報われることのない不遇な牢人の歳月を重ねたと伝えられる。この時期の盛親については、名を変えて寺子屋の師匠となり、京の子弟に読み書きを教えて糊口をしのいだとする逸話も語られているが、確かな史料に乏しく、後世の脚色を多分に含んだ伝承として慎重に扱うべきものである。

大坂の陣への参陣

1614年、徳川と豊臣の関係が決裂して大坂冬の陣が起こると、盛親は旧領土佐の回復という条件に望みを託して豊臣方の誘いに応じ、なお付き従う多くの旧臣を率いて大坂城に入城し、その主力武将の一人となった。盛親は真田信繁や毛利勝永らとともに、大坂城に集った牢人衆のなかでも大坂五人衆と称される有力な将に数えられ、かつて四国に覇を唱えた名族の当主としての声望から、一軍を委ねられる重き存在として期待を集めた。

八尾の戦いでの奮戦

冬の陣がいったん和睦に終わったのち、1615年の大坂夏の陣で再び戦端が開かれると、盛親は河内方面へと進出し、大和路から大坂へ迫ろうとする徳川方の大軍を迎え撃つべく八尾の地に軍勢を展開した。八尾の戦いにおいて盛親の軍勢は、藤堂高虎の隊に対して伏兵を巧みに用いた戦いを挑んで大きな打撃を与える奮戦を見せたが、隣接する若江方面での味方の敗勢に押される形となり、ついに撤退を余儀なくされた。

敗北と最期

翌日の天王寺と岡山方面での最終決戦でも豊臣方は支えきれずに総崩れとなり、大坂城は炎上して豊臣家は滅亡したが、盛親はなおも再起を期して戦場を離脱し、京の周辺へと落ち延びて雌伏の機会をひそかにうかがった。しかしそれから数日のうちに、潜伏していた京の八幡付近で徳川方の手の者に捕らえられ、まもなく京の六条河原において斬首され、悲願であった大名再興を果たせぬまま、その波乱に満ちた生涯を閉じることとなった。

長宗我部氏の滅亡

盛親の遺児たちもまた、同じころ相次いで捕らえられて処刑されたと伝えられ、四国に覇を唱えた長宗我部宗家の血脈はここに断たれて、元親が一代で築き上げた大名家はわずか二代のうちに歴史の表舞台から姿を消した。処刑に臨んだ盛親は、命乞いをするどころかなお再起の志を語って毅然たる態度を崩さなかったとも伝えられるが、これもまた後世の物語に彩られた逸話の色合いが濃く、その真偽については慎重に見極める必要がある。

人物評価と後世への影響

盛親は、二度の天下分け目にいずれも敗れて所領も一族も失った経緯から、時流を読む力に欠けた当主と評されることもあるが、大坂の陣で見せた粘り強い奮戦ぶりは、武将としての確かな力量を示すものとして再評価が進んでいる。近年では、滅びゆく名門を背負って最後まで戦い抜いた悲劇の武将として盛親への関心が高まり、大河ドラマや歴史小説、あるいは郷土史の研究などを通じて、その不屈の生涯が改めて広く語られるようになっている。

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