やの まさとも
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 中村家臣→豊臣方 |
| 大名家 | 中村家(伯耆米子)→豊臣家 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 大槍 |
| 衣装・甲冑 | 塗具足 |
| 武将タイプ | 剛毅・武骨 |
矢野正倫は伯耆米子藩主・中村一忠の重臣だった人物である。中村家の断絶後に大坂城に入り、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で今福の砦を飯田家貞とともに守ったが、佐竹義宣の軍に攻められて兵力の差の前に討死した。
目次
中村家の重臣
矢野正倫は、伯耆国米子(現在の鳥取県米子市)の藩主・中村一忠に仕えた重臣である。知行は3千石と伝わる。
中村一忠は慶長14年(1609年)に20歳で急死した。跡継ぎがいなかったため、中村家は取りつぶされた。正倫はこの後、徳川方に仕えず、豊臣方に身を寄せたとされる。
中村家は一忠の父・中村一氏が豊臣秀吉に仕えて出世した家で、一氏は豊臣政権で三中老の一人に数えられることがある。一忠は関ヶ原の戦いの後、伯耆米子17万5千石を与えられた。
大坂冬の陣と今福の砦
慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の間で大坂冬の陣が起きた。正倫は大坂城に入り、大野治長の配下に入った。
豊臣方は大坂城の北東、大和川沿いの今福(現在の大阪市城東区)に柵を設けて守った。正倫は飯田家貞とともに、それぞれ兵300でここを守備した。
今福の戦いでの討死
同年11月26日の未明、徳川方の佐竹義宣が約1,500の兵で今福の柵を攻めた。兵力の差は大きく、柵は次々に破られた。正倫と家貞はこの戦いで討死した。
この後、豊臣方は木村重成、さらに後藤基次(又兵衛)を援軍に送り、佐竹勢を押し返した。対岸の鴫野でも上杉景勝の軍が戦っており、二つの戦いを合わせて「鴫野・今福の戦い」とも呼ぶ。
ゆかりの地
- 今福の戦い跡(大阪府大阪市城東区今福西):戦いの碑と案内板がある























