おだ のぶただ
| 地域 | 東海(尾張・美濃) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 織田氏(当主) |
| 大名家 | 織田氏 |
| 家紋 | 織田木瓜 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒と朱の具足 |
| 武将タイプ | 若き総大将 |
織田信忠(おだ のぶただ)は、織田信長の嫡男である。弘治3年(1557年)ごろに生まれたとされ(弘治元年説もある)、天正3年(1575年)に父から家督と美濃・尾張を譲られて織田家の当主となった。武田家を滅ぼした甲州征伐の総大将を務めたが、天正10年(1582年)の本能寺の変で、父とともに26歳ほどで命を落とした。
3行でわかる織田信忠
- 信長の嫡男。母は生駒氏とされる。天正3年(1575年)に家督を継ぎ、岐阜城主となった
- 松永久秀の信貴山城攻めや、天正10年(1582年)の甲州征伐で総大将を務め、武田家を滅ぼした
- 本能寺の変の日、京の妙覚寺にいた信忠は二条新御所に移って明智勢と戦い、自害した
目次
信長の跡継ぎとして
信忠は幼名を奇妙丸といい、母は尾張の生駒家の娘とされる(異説もある)。幼いころ、武田信玄の娘・松姫との婚約が結ばれたが、織田と武田の同盟が崩れたため実現しなかった。
天正3年(1575年)、信長は信忠に家督と美濃・尾張を譲り、自分は翌年から安土城の築城に移った。信長が「天下」を、信忠が「織田家」を受け持つ形で、信長は早くから後継の体制を整えようとしていた。
総大将としての戦い
天正5年(1577年)、信長に背いた松永久秀の信貴山城を攻めた軍の総大将は信忠だった。天正10年(1582年)2月からの甲州征伐でも総大将となり、高遠城を落とすなど武田領に攻めこんで、3月に武田勝頼を自害に追いこんだ。父が着く前に戦いを終わらせた働きは、信長にも高く評価されたという。
本能寺の変と最期
天正10年6月2日、信長が本能寺で明智光秀に襲われたとき、信忠は近くの妙覚寺にいた。信忠は脱出せず、守りの固い二条新御所に移って明智勢と戦ったが、力及ばず自害した。脱出していれば織田家の行く末は変わっていたかもしれない、とよく言われる。
信忠の子・三法師(のちの織田秀信)は、清須会議で織田家の跡継ぎとされた。父子が同時に亡くなったことで、織田家をまとめる中心がいなくなり、豊臣秀吉が力を伸ばすきっかけになった(「本能寺の変をわかりやすく解説」参照)。
織田信忠をめぐる人物
ゆかりの地
- 岐阜城(岐阜県岐阜市):信忠が城主を務めた城
- 二条殿跡(二条新御所跡)(京都市中京区):信忠が最期を迎えた地
- 高遠城跡(長野県伊那市):甲州征伐で信忠が攻め落とした城










































