ののむら ゆきまさ
| 地域 | 近畿 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 佐々成政家臣 |
| 大名家 | 佐々 |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 槍 |
| 衣装・甲冑 | 実戦具足 |
| 武将タイプ | 末森合戦で討死したとされる |
佐々成政に属した武将で、通称は主水。尾張津島の人とされる。天正12年(1584)の末森合戦に佐々方として名が見え、この戦いで討ち死にしたとする説がある。
佐々成政に属した野々村主水
野々村幸政は、通称を主水といい、尾張国海東郡津島の人とされる。織田信長の家臣・佐々成政に属した武将として伝わる。辞典類には項目がなく、事績は記録の断片から知られるにすぎない。
伝えられる事績は次のとおりである。永禄12年(1569)の伊勢大河内城攻めに加わった。元亀元年(1570)には、小谷城攻めから退く際に成政の殿軍を助けた。天正5〜6年(1577〜78)には「野々村主水入道宗玄」の名で堺の津田宗及の茶会に出ており、すでに剃髪していた。天正8年(1580)には安土に屋敷地を与えられたとされる。
末森合戦
天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いのさなか、越中の佐々成政は羽柴秀吉方についた前田利家と対立した。同年9月、成政は能登の末森城を攻めた。利家は金沢から海岸沿いに進み、成政軍の背後を突いて勝った。成政は兵を引いて越中に戻った。
金沢市立玉川図書館近世史料館の展示解説には、成政が利家を攻めるにあたり「佐々平左衛門・野々村主水を置く」とある。幸政はこの末森城をめぐる戦いで討ち死にしたとする説がある。本能寺の変で死んだとする話もあるが、これは同じころ信長に仕えた野々村正成との混同と考えられている。
ゆかりの地
- 末森城跡(石川県宝達志水町):天正12年(1584)の末森合戦の舞台
参考にした資料
主君・佐々成政
佐々成政は、信長の黒母衣衆から身を起こし、越中一国を任された武将です。本能寺の変の後は、秀吉と対立する道を選びました。
越中と能登・加賀
成政の越中は、前田利家の能登・加賀と国境を接していました。秀吉に従った利家と、秀吉に対抗した成政は、国境をはさんで争うことになりました。
末森城
末森城は、能登と加賀の境に近い、今の石川県宝達志水町にあった城です。前田家の領国を南北につなぐ大事な場所にありました。
さらさら越え
天正12年(1584年)の冬、成政は家康に協力を求めるため、雪の立山連峰を越えて浜松へ向かったと伝えられます。この行程は「さらさら越え」と呼ばれます。
成政の降伏
天正13年(1585年)、秀吉の大軍に富山城を囲まれ、成政は降伏しました。越中の大部分は没収され、成政は秀吉に仕えることになりました。
成政の最期
成政はその後、肥後の領主に任じられましたが、国衆の一揆を抑えられなかった責任を問われ、天正16年(1588年)に切腹しました。
評価
幸政は、主君の成政とともに前田家と戦った佐々家の家臣と伝えられます。その名は、末森合戦の話とともに残っています。
このイラストについて
このイラストは、煙の立ちこめる戦場で、槍を手に立つ幸政を描いています。
高い兜と、羽織をまとった落ち着いた姿で、佐々家の家臣として戦場に立った武士の覚悟を表しました。
背後の旗と煙は、佐々家と前田家が争った末森合戦の戦場をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
尾張の百姓の家に生まれたとされる羽柴(豊臣)秀吉が、織田信長に仕えて一代で築いた家。本能寺の変の後、山崎の戦いで明智光秀を討ち、清洲会議と賤ヶ岳の戦いを経て織田家中の主導権を握った。1585年に関白となり、翌年には朝廷から「豊臣」の姓を賜っている。
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