もうり てるもと
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利氏 |
| 大名家 | 毛利氏 |
| 家紋 | 一に三つ星 |
| 主武器 | 太刀・采配 |
| 衣装・甲冑 | 豪華重厚具足 |
| 武将タイプ | 総大将・苦悶 |
毛利輝元とは
毛利輝元は、中国地方十か国を領した毛利氏の当主であり、豊臣政権では五大老の一人に列した大大名である。祖父は「三本の矢」の逸話で知られる毛利元就。十一歳で家督を継ぎ、叔父にあたる吉川元春・小早川隆景の毛利両川に支えられて成長した。広島城を築き、地名を「広島」と定めたのも輝元である。今日の広島市の骨格は彼の設計による。しかし関ヶ原の戦いで西軍の総大将に担がれ、敗れて百二十万石から三十六万九千石へ減封される。長州藩の祖となった、この落差の大きい生涯をたどる。
十一歳の当主
輝元は天文二十二年(1553年)、毛利隆元の子として生まれた。幼名を幸鶴丸という。父の隆元は元就の長男で、温厚かつ実直な人物であった。しかし永禄六年(1563年)、出雲遠征の途上で急死する。毒殺を疑う説もあるが、真相は不明である。輝元はこのとき十一歳であった。祖父の元就はまだ健在であり、実質的な統治を続けた。輝元は元服して将軍足利義輝から一字を賜り、輝元と名乗る。
元亀二年(1571年)に元就が七十五歳で没すると、輝元は名実ともに当主となった。十九歳である。ただし実権は叔父の吉川元春と小早川隆景、すなわち毛利両川が握っていた。輝元は長く彼らの判断に従う立場にあった。この体制は毛利氏を安定させたが、同時に輝元自身が決断を下す訓練を積む機会を奪ったともいえる。
織田信長との抗争
天正年間に入ると、織田信長の勢力が中国地方へ及んできた。毛利氏は将軍足利義昭を庇護しており、信長包囲網の一角を担う立場にあった。天正四年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、毛利水軍が織田水軍を破り、石山本願寺への兵糧搬入に成功する。しかし天正六年の第二次木津川口では、九鬼嘉隆の鉄甲船に阻まれて大敗した。
制海権を失ったことで、毛利氏の戦略は大きく揺らぐ。陸上でも羽柴秀吉の中国方面軍が着実に東から侵食してきた。上月城、三木城、鳥取城と拠点が次々に落ちていく。天正十年(1582年)、秀吉は備中高松城を水攻めにした。輝元は元春・隆景とともに救援に出たが、水没した城を前に手が出せなかった。
本能寺の変と和睦
高松城で両軍が対峙するさなか、京で本能寺の変が起きた。秀吉はいち早く情報を掴み、それを伏せたまま毛利方へ和睦を持ちかける。城将である清水宗治の切腹を条件に、講和は成立した。秀吉が軍を返した後に信長の死を知った毛利家中では、追撃を主張する声が上がった。吉川元春は強く追撃を求めたと伝えられる。しかし小早川隆景がこれを退けた。
一度結んだ盟約を破れば毛利家の信義は失われ、しかも消耗した軍で秀吉を討ち取れる保証はない。輝元は隆景の判断を採った。この決断が毛利家を救う。秀吉が天下人となった後も、毛利氏は敵ではなく盟友として遇された。もっともこの場面もまた、輝元自身の判断ではなく叔父の采配であった。
豊臣政権下の毛利氏
天正十六年(1588年)、輝元は上洛して秀吉に謁見し、豊臣姓を与えられた。聚楽第で厚遇を受け、中国地方の支配を正式に認められる。安芸・周防・長門・備後・備中の一部・出雲・石見・隠岐など、およそ百二十万石であった。文禄・慶長の役では大軍を朝鮮へ送り、輝元自身も渡海している。慶長三年(1598年)、秀吉は死の間際に五大老を定めた。徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の五人である。
毛利氏は西国最大の大名として、豊臣政権を支える立場に立った。しかしこの時期、輝元を支えてきた二人の柱が相次いで失われている。吉川元春は天正十四年(1586年)に、小早川隆景は慶長二年(1597年)に世を去った。毛利両川の体制が消えたとき、輝元は初めて一人で決断する立場に置かれた。四十代半ばのことである。
広島という都市の誕生
輝元の事績で最も大きいものが、広島城の築城と城下町の建設である。それまで毛利氏の本拠は、山間の吉田郡山城であった。山城は守りに強いが、大領国を治める政庁としては不便で、城下町も広げられない。天正十七年(1589年)、輝元は太田川の三角州に新たな城の普請を開始した。海に近く、水運と陸路が交わる位置である。築城にあたっては、大坂城や聚楽第を実際に見学して参考にしたと伝えられる。
豊臣政権の先進的な都市計画を、そのまま持ち帰ったのである。この地は「広島」と名づけられた。デルタに広がる島々を意味するとも、有力者の名にちなむともいわれる。城下町は碁盤目に整えられ、商人や職人が集められた。山間の郡山から、海に開かれた広島へ。毛利氏は近世大名へと脱皮した。輝元が広島に住んだのはわずか十年ほどである。それでも、この都市を生んだ功績は動かない。
西軍総大将
慶長五年(1600年)、石田三成が挙兵すると、輝元は西軍の総大将として担ぎ出された。三成にとって、家康に対抗しうる格を持つのは五大老のうち毛利輝元か上杉景勝しかいない。景勝は会津で家康と対峙中であり、輝元が選ばれた。輝元は広島から大坂へ入り、大坂城の西の丸に居を構えた。豊臣秀頼を擁する形で、西軍の頂点に立ったことになる。この決断の背後には、外交僧である安国寺恵瓊の強い働きかけがあったとされる。恵瓊は三成と親しく、毛利家を西軍へ引き込む中心人物であった。
しかし毛利家中は一枚岩ではなかった。吉川広家は東軍への内通を進め、家康との間で毛利本領の安堵を取り付けようとしていた。総大将でありながら、輝元は関ヶ原の戦場へ赴かなかった。大坂城に留まり、四国や九州へ兵を送って勢力の拡大を図っている。小早川隆景が生きていれば、こうした中途半端な関与は起こらなかったであろう。舵取り役を失った毛利家は、方向を定めきれなかった。
南宮山の不戦
九月十五日の関ヶ原本戦において、毛利勢は南宮山に布陣していた。毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊ら、あわせて三万に近い大軍である。東軍の背後を突ける位置にあり、この大軍が動けば戦況は一変したはずであった。ところが最前列に陣取った吉川広家が動かず、後続の秀元らは前進できなかった。出陣を促された秀元が「弁当を使っている」と答えたという逸話が伝わり、「宰相殿の空弁当」として知られる。
広家は家康と密約を結び、毛利本領の安堵を条件に不戦を約していた。総大将の軍が一兵も戦わないまま、西軍は敗れたのである。戦後、輝元は大坂城を明け渡した。家康との交渉にあたったのも広家であった。
百二十万石から三十六万九千石へ
家康は当初、広家との約束どおり毛利本領を安堵する姿勢を見せた。しかし輝元が西軍の総大将として積極的に動いていた証拠が次々と出てくる。四国や九州への出兵を指示した書状などが押収され、輝元の関与は否定できなくなった。結果、毛利氏は改易を免れたものの、周防・長門の二か国三十六万九千石へ大幅に減封される。広家に与えられるはずだった周防・長門を、広家自身が辞退して本家に譲る形で決着した。
輝元は広家に救われたことになる。百二十万石からの転落である。多くの家臣を召し放つことになり、毛利家は深刻な財政難に陥った。輝元は出家して宗瑞と号し、責任を取る形で家督を子の毛利秀就に譲った。ただし実権は隠居後も握り続けている。
萩への移転と長州藩の成立
広島を失った毛利氏は、新たな居城を築かねばならなかった。輝元は防府や山口を希望したが、幕府が指定したのは日本海に面した萩であった。交通の便が悪く、意図的に不便な地を選ばれたとみられる。慶長九年(1604年)、萩城の築城が始まる。指月山の麓に本丸を置き、三方を海と川に囲まれた要害であった。三十六万九千石の身代で百二十万石時代の家臣を養うことはできない。輝元は家臣団の整理と、徹底した新田開発に取り組んだ。
検地を進め、干拓によって耕地を広げ、紙や蝋といった特産品の生産を奨励する。長州藩の財政基盤は、この時期に形づくられた。表高三十六万九千石に対し、実高は幕末には百万石近くに達したといわれる。減封から立ち直る過程で、藩は驚くほど体力をつけた。この蓄積が、二百六十年後の幕末に長州藩が動いた原資となる。輝元の敗北が、遠く明治維新につながっているのは歴史の皮肉である。
晩年
大坂の陣に際して、輝元は幕府方として振る舞った。ただし家臣の一部が豊臣方へ加わっており、輝元自身の関与を疑う見方もある。元和九年(1623年)、輝元は正式に隠居した。すでに七十歳を超えていた。寛永二年(1625年)四月、萩において没する。享年七十三。祖父の元就と同じく、長寿であった。生涯を通じて、輝元は毛利家を存続させることに執着した。総大将として敗れながら家名を残したことは、結果として最大の功績となる。
評価をめぐって
輝元の評価は、長く厳しいものであった。偉大な祖父と有能な叔父たちに恵まれながら、自らの判断で百二十万石を三分の一以下に減らした当主。優柔不断の代名詞のように語られてきた。確かに関ヶ原での動きは中途半端であった。総大将を引き受けながら戦場へ出ず、家中の内通も掌握できていない。ただし擁護すべき点もある。輝元は十一歳で家督を継ぎ、三十年以上にわたって祖父と叔父の指導下に置かれた。
自ら重大な決断を下す経験を積む機会が、構造的に与えられていなかったのである。両川という優れた補佐役の存在は、同時に当主の成長を妨げた。そして最も重い局面で、その補佐役はもういなかった。近年は、広島城と城下町の建設、減封後の藩政再建といった統治面の実績を評価する見方も広がっている。
輝元ゆかりの地をたどる
広島城は輝元が築いた城である。天守は原爆で失われ現在のものは再建だが、堀と石垣に当時の縄張りが残る。城内には輝元を祀る広島護国神社もある。山口県萩市の萩城跡(指月公園)は、減封後の毛利氏の本拠である。石垣と堀が残り、背後の指月山に登れば日本海を一望できる。萩の城下町は江戸期の町割りがそのまま残り、世界遺産の構成資産にもなっている。
輝元が引いた線の上に、幕末の志士たちが育った。広島県安芸高田市の吉田郡山城跡は、輝元が生まれ育った毛利氏本来の本拠である。元就の墓所もここにある。岡山県岡山市の備中高松城跡には水攻めの堤の跡が残り、清水宗治の首塚も建つ。輝元が秀吉と和睦した地である。
毛利両川という枠組みのなかで
輝元を理解する鍵は、毛利両川という体制にある。元就は三人の息子を配置し、長男の隆元に本家を、次男の元春に山陰の吉川家を、三男の隆景に瀬戸内の小早川家を継がせた。隆元の早世により、この体制は「幼い当主を二人の叔父が支える」という形で機能することになった。元春は山陰の軍事を、隆景は山陽と外交を担当し、輝元は最終的な承認者として構えていた。役割分担は明快で、四十年近く機能し続けた。
問題は、輝元が承認者以上の役割を担う場面がほとんど訪れなかったことである。本能寺の変の後の和睦も、秀吉への臣従も、判断したのは隆景であった。二人の叔父が没した後、輝元は突然すべてを自分で決める立場に置かれる。四十代半ばで初めて経験する重圧であった。関ヶ原での迷走は、能力の欠如というより、その訓練不足の帰結と見るのが公平であろう。
毛利氏が生き残った理由
関ヶ原で西軍の総大将を務めながら、毛利氏は改易を免れた。これは極めて異例である。同じ五大老の宇喜多秀家は八丈島へ流され、上杉景勝も百二十万石から三十万石へ削られた。西軍の中心にいた石田三成と小西行長は処刑されている。毛利氏が家を残せたのは、第一に吉川広家の内通と交渉による。広家は家康と直接の関係を築き、本領安堵の言質を得ていた。
第二に、輝元自身が戦場に出ず、大坂城を素直に明け渡したことも大きい。抵抗すれば徹底的に潰されていたであろう。第三に、小早川隆景の代から積み重ねてきた豊臣・徳川双方との人脈が、最悪の事態を防いだ面もある。総大将としては失格でも、家を残すという一点においては目的を達した。輝元の評価が難しいのは、この二重性ゆえである。
減封が長州藩に遺したもの
三十六万九千石への減封は、毛利家にとって屈辱であった。だがその屈辱が、藩の体質を変えた。石高が三分の一以下になっても、家臣は簡単には減らせない。輝元は家臣の知行を大幅に削り、多くを半士半農の身分として土地に定着させた。この措置により、長州藩は他藩に比べて武士の人口比率が異常に高い藩となる。石高に見合わない数の武士を抱え続けたのである。
財政は苦しかったが、藩は新田開発と特産品の育成で対抗した。防長の干拓地は着実に広がり、紙・蝋・塩といった産業が育つ。結果として、表高と実高の乖離が極端に大きい藩になった。帳簿上は三十六万九千石でも、実力はその二倍以上である。幕末、長州藩が幕府を相手に戦い抜けたのは、この隠れた蓄積と、数の多い武士層があったからにほかならない。
毎年正月に家臣が「今年は倒幕の機はいかに」と問い、藩主が「時期尚早」と答える儀式があったという話が伝わる。史実ではないとされるが、こうした逸話が生まれるほど、関ヶ原の記憶は長州に残った。輝元の敗北は、二百六十年後に別の形で決着したことになる。
輝元の人物像
輝元は温和で、家臣の意見をよく聞く人物であったと伝えられる。祖父の元就が冷徹な謀略家、叔父の元春が剛毅な猛将、隆景が思慮深い調整役であったのに対し、輝元は突出した個性を持たなかった。しかしそれは欠点ばかりではない。強すぎる当主は家中を割ることもある。輝元の穏やかさは、両川体制を四十年機能させた前提でもあった。
茶の湯や連歌をたしなみ、文化的な素養も高かった。上洛の際には公家や文化人と交わっている。一方で、決断を先送りする傾向は繰り返し指摘されてきた。関ヶ原での動きはその最たるものである。養子に迎えた毛利秀元との関係も微妙であった。実子の秀就が生まれたことで秀元は分家に回され、家中に緊張を残している。大領を治めるだけの器量が足りなかったのか、それとも与えられた役割が重すぎたのか。
輝元の評価は、そのどちらを取るかで大きく変わる。広島の街と萩の城下町、その両方を残した戦国大名は他にいない。片方は栄光の証であり、もう片方は敗北の産物である。毛利輝元という人物を語るとき、この二つの都市を並べて見るのが最も正確なのかもしれない。
当図鑑内の関連武将
輝元の祖父が毛利元就、支え続けた叔父が吉川元春と小早川隆景である。関ヶ原で不戦を選んだ吉川広家と、南宮山に布陣した毛利秀元。西軍へ引き込んだ外交僧安国寺恵瓊、高松城で切腹した清水宗治、西軍の中心であった石田三成と宇喜多秀家。和睦した豊臣秀吉と、減封を命じた徳川家康。あわせてご覧いただきたい。

