いじゅういん ただむね
| 地域 | 九州(薩摩・日向) |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 島津氏 |
| 大名家 | 島津家(家臣・伊集院氏) |
| 家紋 | ― |
| 主武器 | 刀 |
| 衣装・甲冑 | 当世具足 |
| 武将タイプ | 家老・政治家 |
伊集院忠棟は、薩摩の島津義久に仕えた筆頭家老である。豊臣政権とのつなぎ役として力を伸ばし、日向庄内で8万石という大きな領地を得た。しかし慶長4年(1599)、島津忠恒に伏見の屋敷で殺され、子の忠真が庄内の乱を起こした。
島津一族の流れをくむ伊集院氏
伊集院氏は、鎌倉時代の島津家当主島津忠時の子、忠経の子孫と伝わる島津の一族である。薩摩の伊集院(今の鹿児島県日置市)を名字の地とした。
忠棟は伊集院忠倉の子で、祖父は忠朗である。生年はわかっていない。初めの名は忠金といい、通称は源太、右衛門大夫であった。のちに出家して幸侃と号したため、「伊集院幸侃」の名でも知られる。
義久の筆頭家老として
忠棟は初め、島津義久の使者を務める家臣であった。永禄9年(1566)以後は国老(家老)となり、やがて島津家臣の筆頭の地位に立った。島津家が九州のほぼ全体に勢力を広げた時期、その政治を支えたのが忠棟である。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州攻めで島津家は降伏した。このとき忠棟は人質となった。その後は石田三成と親しくなり、豊臣政権と島津家を結ぶ役割を担った。豊臣方に近い立場から、島津家の家臣や領民を朝鮮出兵などの戦いに駆り立てた人物とも評されている。
庄内8万石と伏見での死
文禄4年(1595)、太閤検地のあとで忠棟は日向の庄内に8万石を与えられた。庄内はもともと島津の分家北郷氏の領地で、北郷氏は祁答院(今の鹿児島県さつま町あたり)へ移された。都城には新しい領主として忠棟が入った。家臣の身で大名ほどの領地を持ったことで、主家との間に緊張が生まれた。
慶長4年(1599)3月9日、忠棟は京都伏見の島津家の屋敷で、義久の後継ぎ島津忠恒(のちの家久)に殺害された。
庄内の乱とその後
父を殺された嫡男の伊集院忠真は、庄内で島津家に反旗をひるがえした。これが庄内の乱である。都城の北郷氏もこの戦いに加わり、その手柄で旧領の都城に戻ることができた。
伊集院氏が治めたころの都城には、「取添」という曲輪が加えられた。これにより、今に残る都城の城の形が完成したという。城跡は都城市都島町などに残っている。
ゆかりの地
- 都城跡(宮崎県都城市都島町):庄内の中心の城。伊集院氏が曲輪「取添」を加えた
参考にした資料
伊集院忠棟とは
伊集院忠棟は、島津家の筆頭家老で、島津義久を支えた重臣です。幸侃の号でも知られます。
秀吉との交渉
忠棟は、秀吉の九州平定の際に島津家の降伏の交渉にあたり、秀吉からも重んじられました。
庄内八万石
忠棟は、秀吉から日向の庄内に八万石を与えられ、島津家の家臣でありながら大きな領地を持ちました。
伏見での死
慶長4年(1599年)、忠棟は伏見で島津忠恒に討たれました。この事件が、庄内の乱のきっかけとなりました。
評価
忠棟は、島津家の筆頭家老として秀吉との交渉を担い、大きな力を持ったがゆえに主家と対立した人物です。
このイラストについて
このイラストは、山と城を背に、扇を手にした忠棟を描いています。
扇を持つ落ち着いた姿で、交渉にすぐれた家老の知略を表しました。
夕日に照らされた山と城は、忠棟が治めた日向の庄内をイメージしています。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
鎌倉時代から薩摩・大隅・日向の守護を務めた名門。戦国時代の初めには一族の分家どうしが争って勢力が分裂していたが、分家の相州家から出た島津忠良(日新斎)と子の貴久が本家を継ぎ、薩摩の統一を進めた。
島津家の歴史と武将一覧を見る →

-name-300x300.jpg)























































