とうどう たかとら
| 地域 | 近畿・東海 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 徳川系 |
| 大名家 | 徳川系 |
| 家紋 | 藤巴 |
| 主武器 | 大槍・陣太刀 |
| 衣装・甲冑 | 黒漆塗具足 |
| 武将タイプ | 築城名人・処世 |
藤堂高虎とは
藤堂高虎は、近江の土豪の子から伊勢津三十二万石の大名にまで昇りつめた武将である。生涯に七度も主君を変えたことで知られ、そのために変節漢と評されることも多い。しかし彼を単なる世渡り上手と見るのは的外れである。高虎の真価は築城にあった。宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城。さらに江戸城、大坂城、二条城の縄張りにも関与している。高石垣と層塔型天守という近世城郭の様式を確立したのは高虎であった。徳川の世の城の姿は、この男が決めたといってよい。七十五年の生涯をたどる。
近江の土豪の子
高虎は弘治二年(1556年)、近江国犬上郡藤堂村に生まれた。父の藤堂虎高は在地の土豪で、浅井氏に仕えていた。身の丈六尺二寸、およそ百九十センチに達する巨漢であったと伝えられる。当時としては群を抜く体格である。元亀元年(1570年)、十五歳の高虎は浅井長政の軍に加わり、姉川の戦いで初陣を飾った。この戦いで足軽ながら首を挙げ、長政から直々に賞賛されたという。しかし浅井氏は天正元年(1573年)に滅亡する。
高虎は主家を失った。以後、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄と主君を替えていく。いずれも長続きしなかった。この時期の高虎は、仕官先を求めて放浪する一介の武辺者にすぎない。餅屋で食い逃げをした際、店主が咎めずに路銀まで持たせたという逸話が残る。後に大名となった高虎は、この店主を探し出して厚く報いたと伝えられる。恩を忘れないという評判は、生涯を通じて彼の資産となった。
羽柴秀長との出会い
天正四年(1576年)頃、高虎は羽柴秀吉の弟である羽柴秀長に仕えた。ここから運命が変わる。秀長は温厚で調整に長けた人物であり、高虎の実直さを見抜いて重用した。二人の関係は主従を超えた信頼で結ばれる。高虎は但馬、紀伊、四国と秀長に従って転戦し、着実に武功を重ねた。天正十三年(1585年)の紀州攻めの後、紀伊粉河に二万石を得る。この頃から高虎は築城に関わり始めた。
紀伊の猿岡山城や、和歌山城の普請にも携わっている。天正十九年(1591年)、秀長が没する。高虎はその養子である豊臣秀保に仕えたが、秀保も文禄四年(1595年)に若くして死去した。二代続けて主君を失った高虎は、世を儚んで高野山に入り、出家してしまう。しかし秀吉はその才を惜しみ、使者を送って還俗させた。高虎は伊予板島、後の宇和島に七万石を与えられる。
宇和島城と水軍
伊予板島に入った高虎は、板島丸串城を大改修し、宇和島城として完成させた。この城の特徴は、上から見た縄張りが五角形をなしていることである。四角形に見せかけて実は五角形という設計で、攻め手の予測を狂わせる狙いがあったとされる。海に面した水城でもあり、堀の一部は海水を引き込んでいた。
高虎は水軍を率いる立場でもあったのである。慶長の役では水軍を指揮し、加藤嘉明らとともに漆川梁で朝鮮水軍を破った。海戦の指揮も一定の水準にあったことになる。宇和島城は現存十二天守の一つに数えられる。ただし現在の天守は伊達氏の時代に建て替えられたもので、高虎期のものではない。
関ヶ原と徳川への接近
慶長三年(1598年)に秀吉が没すると、高虎はいち早く徳川家康に接近した。この判断は驚くほど早い。豊臣恩顧の大名の多くがまだ様子を見ているうちに、高虎は明確に立場を定めている。慶長五年(1600年)の関ヶ原では東軍として本戦に参加し、大谷吉継隊と戦った。同時に、脇坂安治ら西軍諸将への調略も担っている。とりわけ小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らの内応は高虎の工作によるとされる。
彼らは小早川秀秋の寝返りに続いて大谷隊を襲い、西軍を崩壊させた。戦後、高虎は伊予今治二十万石を与えられた。七万石からの大幅な加増である。今治では新たに今治城を築いた。海に直結する船入を備えた画期的な海城で、城内まで船が入れる構造であった。また今治城では、日本で初めて層塔型天守が建てられたとされる。従来の望楼型に比べて構造が単純で、工期も短く、大量生産に向く様式である。
築城の名手
高虎の築城には明確な特徴がある。一つは、直線的でそそり立つ高石垣である。従来の石垣が緩やかな勾配で反り返るのに対し、高虎の石垣は高く、垂直に近い。加藤清正の武者返しとはまったく異なる思想である。もう一つが層塔型天守である。各層を同じ形で少しずつ小さくしながら積み上げる方式で、設計と施工が合理化される。この二つの技術によって、城は「早く、高く、大量に」築けるようになった。
徳川の天下普請で全国に城が建てられた背景には、高虎の技術革新がある。高虎が縄張りや普請に関与した城は、宇和島城、今治城、津城、伊賀上野城、篠山城、丹波亀山城、二条城、江戸城、大坂城など二十を超える。伊賀上野城の高石垣は、高さおよそ三十メートル。日本有数の高さを誇り、高虎の技術の到達点を示している。
伊勢津へ — 西国への備え
慶長十三年(1608年)、高虎は伊予今治から伊勢津二十二万石へ移された。石高はほぼ横ばいだが、意味はまったく違う。伊勢は東海道の要衝であり、大坂の豊臣家と江戸の間に位置する。家康は高虎を、対豊臣の最前線に配置したのである。外様大名にこの位置を任せたことは、信頼の深さを物語る。高虎は津城を大改修し、城下町を整備した。同時に伊賀上野城にも高石垣を築き、大坂へ向けた備えを固めている。
大坂の陣では、高虎は徳川方の主力として戦った。夏の陣の八尾・若江の戦いでは長宗我部盛親隊と激突し、多数の家臣を失う苦戦を強いられている。戦後、加増を受けて三十二万石余となった。外様でありながら譜代大名並みに遇され、幕政にも意見を求められた。家康は臨終の際、高虎を枕元に呼んだと伝えられる。宗派の違いを気にする高虎に、来世でも側にいられるよう改宗を勧めたという逸話が残る。
七度主君を替えた男
高虎が仕えた主君は、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉、豊臣秀保、そして徳川家康。数え方によるが、七度から八度は主君を変えたことになる。この経歴が、後世に変節漢という評価を生んだ。高虎自身は「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」と語ったと伝えられる。ただしこの言葉の出典は定かでない。ここで注意したいのは、彼が仕えた主君のうち五人までが、死亡または没落によっていなくなっている点である。
浅井氏は滅亡し、織田信澄は本能寺の変の余波で殺され、秀長と秀保は病死した。高虎が裏切って去ったわけではない。唯一、明確に自らの意志で立場を選んだのが徳川家康への接近である。そしてその一度だけが、彼の生涯を決めた。主君を替え続けたのではなく、主君に先立たれ続けた男。そう読み直すと、高虎の生涯はまったく違って見えてくる。
人物像と逸話
高虎は身体中に傷跡があったと伝えられる。指も何本か欠けていたという。家康の前でその傷を見せたところ、家康は感嘆し、傷こそ武士の勲章であると讃えたという逸話が残る。築城の名手として知られる一方、彼は最前線で槍を振るった武将でもあった。設計図を引く手と、傷だらけの体が同居している。家臣に対しては寛容で、他家を去った牢人を数多く召し抱えた。
自らが仕官に苦労した経験があるからであろう。その一方で、恩義には厳格であった。餅屋の店主への報恩、秀長への終生の敬慕。受けた恩を返すことを、彼は生涯忘れなかった。遺訓として「寝屋を出るより其の日を死番と心得るべし」という言葉が伝わる。毎朝、今日死ぬ覚悟で起きよという意味である。
晩年と藤堂家のその後
高虎は晩年、失明したと伝えられる。それでも幕政への関与は続き、諸大名との調整役を務めた。寛永七年(1630年)、高虎は江戸の藤堂屋敷で没した。享年七十五。家督は養子の藤堂高次が継いだ。藤堂家は伊勢津三十二万石として幕末まで続く。外様でありながら江戸城の要所を任され、幕府の重要な儀礼にも列した。実質的には譜代に近い扱いであった。幕末には、藤堂家は鳥羽・伏見の戦いで幕府方から新政府方へ転じる。先祖と同じく、時代の転換点で身の処し方を決めたことになる。
後世の評価
江戸期の高虎評は、必ずしも高くない。主君を替え続けた経歴が、忠義を重んじる価値観と合わなかったためである。明治以降も、この評価は長く尾を引いた。忠臣の物語が好まれる時代に、高虎の生き方は語りにくい。しかし近年は、築城技術者としての功績が大きく見直されている。層塔型天守と高石垣という様式は、日本の城の姿を決定的に変えた。また、能力を正当に評価してくれる主君を選び続けた合理性は、現代の目からは肯定的に読まれることも多い。生涯を通じて七つの家に仕え、そのどこでも実績を残した。これは器用さではなく、確かな実力の証明である。
高虎ゆかりの城をたどる
愛媛県宇和島市の宇和島城は、高虎が築いた五角形の縄張りで知られる。現存天守は伊達期のものだが、石垣には高虎の仕事が残る。愛媛県今治市の今治城は、海水を引き込んだ堀を持つ海城である。層塔型天守発祥の地とされ、城内には高虎の騎馬像が立つ。三重県津市の津城跡には、高虎が築いた石垣と、彼の銅像が残る。
城下町の構造も高虎の設計による。三重県伊賀市の伊賀上野城は、高さ三十メートル級の高石垣が圧巻である。日本一とも称されるこの石垣は、高虎の技術の到達点といえる。兵庫県丹波篠山市の篠山城、京都の二条城など、天下普請で高虎が縄張りを担当した城も各地に残っている。
近世城郭という発明
高虎が確立した築城様式が、なぜ画期的だったのかを整理しておきたい。戦国前期の城は、山の地形をそのまま利用した山城が主流であった。守るには強いが、平時の統治には不便で、城下町も築きにくい。織田・豊臣期になると、平地や丘に石垣を高く積み、天守を建てる城が現れる。安土城や大坂城がその代表である。ただし初期の天守は望楼型といい、大きな入母屋屋根の上に物見の櫓を載せる構造であった。見た目は壮麗だが、設計も施工も複雑で時間がかかる。
高虎が広めた層塔型は、同じ形の階を積み重ねるだけの単純な構造である。図面が引きやすく、木材の規格化も可能で、工期が大幅に短縮できる。高石垣も同様の発想である。反りを持たせる技術は高度だが、直線的に高く積むほうが早く、しかも十分に防御力がある。徳川幕府が全国で天下普請を進め、短期間に多くの城を築けたのは、この合理化があってこそである。高虎は美よりも実用と速度を選んだ。近世という時代の要請を、城の形で先取りしたのである。
家康が高虎を重んじた理由
外様大名でありながら、高虎は徳川政権のなかで別格の扱いを受けた。第一に、築城技術である。江戸城、大坂城、二条城、篠山城。徳川の権威を形にする普請に、高虎の知識は不可欠であった。第二に、豊臣恩顧の大名との人脈である。高虎は秀長時代から西国大名と広く付き合いがあり、彼らの動向を読むことができた。第三に、政治的な判断力である。
関ヶ原前の調略、大坂の陣に至る交渉。高虎は情報を集め、相手の心理を読むことに長けていた。そして第四に、裏切らないという信頼である。皮肉なことに、七度主君を替えた男は、家康に対しては一度も揺らがなかった。家康にとって高虎は、技術者であり外交官であり、そして西国への備えでもあった。これほど使い出のある大名は他にいない。
羽柴秀長という恩人
高虎の生涯で最も重要な人物は、家康でも秀吉でもなく、羽柴秀長であったと思われる。放浪の武辺者にすぎなかった高虎を拾い、才を見抜き、二万石の大名にまで引き上げたのが秀長である。秀長は兄の秀吉を補佐し、諸大名の調整に生涯を費やした人物である。派手さはないが、実務で政権を支えた。高虎が身につけた交渉力と調整の感覚は、この主君のもとで培われたものであろう。築城に関わり始めたのもこの時期である。
秀長が没したとき、高虎は深く嘆いたと伝えられる。その養子である秀保にも仕え、秀保の死後は出家してしまう。出家という行動は、高虎が単なる打算の人ではなかったことを示している。仕える相手を失った喪失感が、それだけ大きかったのである。高虎は秀長の菩提を生涯弔い続けた。大和郡山にある秀長の墓所は、藤堂家によって維持されたと伝えられる。
大坂の陣での苦戦
慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣は、高虎にとって生涯で最も苦しい戦いとなった。八尾・若江の方面で、高虎の軍は長宗我部盛親の部隊と正面から衝突する。豊臣方の中でも精強な部隊であった。藤堂勢は激しい損害を受け、一族の藤堂高刑をはじめ多くの将を失った。高虎自身も危うい場面があったとされる。六十歳の高虎にとって、これが最後の実戦であった。築城の名手という顔の裏で、彼は最後まで戦場に立ち続けたのである。戦後、家康は藤堂勢の奮戦を高く評価し、加増を行った。犠牲の大きさが、そのまま信頼の証となった形である。
藤堂家臣団の特色
高虎の家臣団は、他家を出た牢人を多く含んでいた。譜代の家柄を持たない当主が、実力で人を集めた結果である。渡辺勘兵衛は槍の名手として知られ、他家を渡り歩いた末に高虎に仕えた。ただし後に不和となり、藤堂家を去っている。高虎は牢人の登用に積極的であった反面、家中の統制には苦労した面もある。出自がばらばらな集団をまとめるのは容易でない。そこで高虎が用いたのが、明快な軍法と厳格な賞罰である。
誰が見ても分かる基準を示すことで、寄せ集めを組織へ変えた。また高虎は、家臣に対して自らの経験を語ることを好んだという。放浪の日々、餅屋での恩、秀長への感謝。主君が自分の弱かった時代を隠さないことは、牢人出身の家臣にとって大きな救いであったろう。近江の土豪の子が、二十を超える城の設計に関わり、伊勢三十二万石で世を去る。藤堂高虎の生涯は、技術が身分を超えうることを示した例でもある。
主君を七度替えた男として語られるより、日本の城の形を変えた男として語られるほうが、この武将にはふさわしい。伊賀上野城の高石垣を見上げれば、その仕事の大きさが一目で分かる。現存する城を訪ねると、加藤清正の反り返る石垣と、藤堂高虎のそそり立つ石垣の違いが体感できる。同じ時代に、まったく異なる二つの解答があったのである。
当図鑑内の関連武将
高虎が初陣を飾ったときの主君が浅井長政、生涯敬慕し続けた主君が豊臣秀長、そして最後に選んだ主君が徳川家康である。還俗させて伊予を与えたのが豊臣秀吉であった。伊予で競い、後に会津へ推挙した加藤嘉明、関ヶ原でともに調略を担った黒田長政、築城の名手として並び称される加藤清正、関ヶ原で戦った石田三成。あわせてご覧いただきたい。

