相良長毎 | 相良義陽の子。島津・豊臣・徳川と主家を変え、関ヶ原では西軍から東軍へ寝返り人吉藩2万2千石を幕末まで残した

相良長毎のイラスト(イメージ)

さがら ながつね

地域九州
所属勢力・属性相良氏
大名家相良氏
家紋丸に三ツ引き
主武器太刀・行政書状
衣装・甲冑塗具足
武将タイプ「人吉藩の祖」・処世

相良義陽の子。島津・豊臣・徳川と主家を変え、関ヶ原では西軍から東軍へ寝返り人吉藩2万2千石を幕末まで残した。

目次

人吉の相良家

長毎は、肥後の人吉を本拠とした相良家の当主です。相良家は鎌倉時代から球磨地方を治めてきた古い家でした。

父義陽の死

父の相良義陽は、島津家に従った後、1581年の響野原の戦いで阿蘇家の甲斐宗運と戦って討死しました。

兄の死と家督

義陽の死後、家督は兄の忠房が継ぎましたが、忠房は若くして亡くなり、弟の長毎(はじめ頼房)が相良家を継ぎました。

島津家への従属

当時の相良家は島津家に従っており、長毎も島津家の九州統一の戦いに加わりました。

豊臣秀吉の九州平定

1587年、豊臣秀吉が九州に大軍を送りました。島津家が降伏すると、相良家も秀吉に従いました。

深水長智と犬童頼兄

長毎の家を支えたのは、家老の深水長智でした。長智は秀吉との交渉にあたり、相良家の本領を守ったとされます。のちには犬童頼兄が家中で大きな力を持ちました。

人吉の本領安堵

相良家は秀吉から球磨郡の本領を認められ、豊臣大名として家を保ちました。

朝鮮出兵

長毎は、秀吉の朝鮮出兵にも加わりました。

関ヶ原の戦い

1600年の関ヶ原の戦いで、長毎ははじめ西軍に加わり、大垣城の守りについていました。

東軍への寝返り

しかし、西軍の敗北が明らかになると、長毎は東軍に通じ、大垣城の中で西軍の将を討って城を明け渡したとされます。

人吉藩の成立

この働きによって、相良家は徳川家康から本領を認められ、人吉藩の大名として江戸時代を迎えました。

球磨川と人吉

人吉は、球磨川の流れに沿った盆地の町です。人吉城は球磨川を堀として利用した城でした。

相良家の長い歴史

相良家は、鎌倉時代から明治維新まで、およそ700年にわたって人吉を治め続けました。同じ土地を治め続けた大名家として、全国でも珍しい存在です。

お下の乱

長毎の後の時代、相良家では家老の犬童家をめぐる争いが起こりました。家臣の力が強い家中を治めることは、相良家にとって大きな課題でした。

人吉の町

人吉は、球磨川の流れに沿った盆地の町で、今も城下町の面影が残っています。

青井阿蘇神社

人吉には、相良家が大切にした青井阿蘇神社があり、その社殿は国宝に指定されています。

犬童家の台頭

長毎の時代、家老の犬童頼兄が大きな力を持つようになり、のちに藩主家との対立につながっていきました。

長毎の評価

長毎は、島津家・豊臣政権・徳川幕府と移り変わる時代の中で、巧みに家を守り、人吉藩の初代藩主となった武将です。その判断が、相良家の700年の歴史をつなぎました。

このイラストについて

甲冑姿の武将が地図を手に、川の流れる山あいの土地を背にした姿です。

手にした地図と背景の川は、長毎が治めた肥後の人吉と、その町を流れる球磨川をイメージしています。長毎は、時代の大きな変わり目に家の行く末を見極め、本領を守りぬきました。顔立ちは想像によるものです。

※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。

相良家

肥後南部の人吉を本拠とした家。鎌倉時代に遠江から地頭として下ったのが始まりとされ、戦国時代を通じて同じ土地を治め続けた。

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家臣団

岡本頼氏のイラスト(イメージ)深水長智のイラスト(イメージ)犬童頼兄のイラスト(イメージ)犬童頼安のイラスト(イメージ)
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