あいおう もとつな
| 地域 | 中国 |
|---|---|
| 所属勢力・属性 | 毛利一門 |
| 大名家 | 毛利一門 |
| 家紋 | 一に三つ星 |
| 主武器 | 太刀 |
| 衣装・甲冑 | 華美具足 |
| 武将タイプ | 悲壮・擁立 |
毛利元就の腹違いの弟。坂広秀らに担ぎ出されて元就と家督を争う形となり、元就の急襲を受けて戦死。
毛利元就の異母弟
元綱は、安芸の毛利弘元の子で、毛利元就の異母弟です。
相合の名
元綱の母は、相合の地に住んでいたことから「相合殿」と呼ばれ、元綱も相合元綱と呼ばれました。
毛利家の当主の死
1523年、毛利家の当主で、元就の兄の子である幸松丸が、幼くして亡くなりました。
元就の家督相続
重臣たちは話し合いの末、元就を新しい当主に迎えました。
元綱を推す動き
しかし、重臣の中には、元就ではなく元綱を当主にしようとする者たちがいました。坂広秀や渡辺勝らがその中心だったとされます。
尼子家の影
この動きの背後には、出雲の尼子経久の働きかけがあったともいわれます。
元就の決断
1524年、元就はこの企てを知り、元綱を討ちました。坂広秀・渡辺勝らも討たれました。
兄弟の争い
元綱の死は、毛利家の家督をめぐる兄弟の争いの悲劇でした。
元綱の子
元綱の子は命を助けられ、のちに毛利家の家臣として仕えたとされます。
元就の苦い経験
元就は、この経験から、一族の結束の大切さを強く感じたとも考えられます。
三本の矢
元就が子どもたちに兄弟の結束を説いた話は、のちに「三本の矢」の逸話として知られるようになりました。
三子教訓状
元就が三人の子に宛てた「三子教訓状」には、兄弟が力を合わせることの大切さが繰り返し記されています。
尼子家との決別
この事件の後、元就は尼子家から離れ、大内家と結ぶ道を選びました。
毛利家の出発点
元綱の事件は、元就が当主としての地位を固め、毛利家が大きく成長していく出発点となった出来事の一つでした。
船山城
元綱は、船山城を拠点としていたとされます。
坂広秀と渡辺勝
元綱を推した坂広秀と渡辺勝は、いずれも毛利家の重臣の家の出身でした。この事件で、毛利家の家中は大きく揺れました。
家督争いの教訓
戦国時代の多くの家では、家督をめぐる争いが家を弱める原因となりました。元就は、その危うさを身をもって知っていたのです。
弘元の子どもたち
毛利弘元には、興元・元就・元綱などの子がいました。長男の興元が早くに亡くなったことが、のちの家督争いの背景となりました。
幸松丸
幸松丸は、興元の子で、幼くして毛利家を継ぎましたが、9歳ほどで亡くなりました。その後見役を務めていたのが元就でした。
尼子経久
尼子経久は、出雲から山陰・山陽に勢力を広げた大名で、謀略に長けたことで知られます。
元綱の評価
元綱は、元就の異母弟として生まれ、家督争いの中で兄に討たれた人物です。その悲劇は、元就が一族の結束を重んじるようになった背景として語られています。
このイラストについて
三日月の前立ての兜をかぶった若い武将が采配を高く掲げ、山並みと旗を背にした姿です。
采配を高く掲げる姿は、一部の重臣たちに毛利家の当主として推された元綱をイメージしています。若々しい顔立ちは、家督争いの中で若くして命を落とした元綱を表したもので、想像によるものです。
※当サイトの武将イラストは、画像生成AIを活用し、当サイトが構図や装束を指定して制作した想像図です。肖像画や現存する甲冑をそのまま写したものではありません。
安芸の一国人にすぎなかった毛利氏を、元就が一代で中国地方の覇者へ押し上げた。出雲の尼子氏と周防の大内氏という二大勢力に挟まれながら、次男元春を吉川家へ、三男隆景を小早川家へ送り込んで両家を一門化し、「毛利両川」と呼ばれる体制を作った。
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